だまされやすい人の特徴
戦争責任者の問題(一部抜粋)ー 伊丹万作https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。【宮沢孝幸】ウイルス学者の責任~仙台の屈辱~https://www.nicovideo.jp/watch/sm42818885?今は ”人工ハルマゲドン” に至る艱難の時代だろうと思っているが、先の大戦当時から 現代の日本人が「随分進歩したなぁ」とは感じられない。どうやら歴史の貴重な教訓を学べず、生かせなかったようだ。先の大戦中は「我が国は 未曽有の国難に見舞われている」「何とかしなければ」と言う危機意識を共有していた分だけ まだましだった。今の日本人には、自己保身とカネ儲け以外 何も感じられない。完全に だまされていて、何の危機意識もありそうにない。当時と違って、まだ一応 ”民主主義” の建前があるから、大本営発表に異議を唱えても、特高警察に捕まって拷問の末に殺される と言うことは ないし、また 相互に だまし合わなければ生きていけない と言うほど追い詰められた状況にもない。にもかかわらず、ほとんどの国民が まったくの自発的奴隷状態にあるようだ。よって、今度こそ日本は滅びるに違いない。もっとも「諸行無常」であるから、滅びるのは仕方ない。このうえは「いかにして 心穏やかに 滅びゆく国で人生を全うするか」ということを考えたいと思う。ところで だまされやすい人の特徴とは何だろう。「無知」と言うのは、ネット時代の今 あまり理由にならないと思う。それに少しぐらい知識があったとしても、生半可な知識では 詐欺師に勝てない。「人の好さ」と言うのも違う。もっと大きな要因は「不誠実さ」ということではなかろうか。この場合の不誠実さとは、自分自身に嘘をつくことである。しかし自分に対して不誠実な人間は、他人に対しても不誠実である。自分の執着する ”嘘の世界” を維持するためには、周囲の人々にも嘘をついて、それを支持してもらわねばならないからだ。こういう人々は、たいてい 自分たちにとって居心地のいい ”嘘つきグループ” を形成している。自己欺瞞人間は、平気で自分に嘘をつく。こういう人々は、事実ではなく 自分が信じたいことを信じようとする。だから 不都合な現実や困難な状況に直面すると、そこから逃げられる安易な嘘に すぐ飛びついてしまう。特に 自分の責任を免れるためとあらば、どんな嘘にも すがりつこうとする。それは 彼らの心の弱さである。彼らは、常習的に嘘をついているうちに、何が本当で何が嘘なのか 自分でも分からなくなっている。そして 自分の ”嘘の王国” が崩壊することを極端に恐れている。こういう弱みを持った人間たちを、詐欺師どもは敏感に嗅ぎつけ、餌食にするのである。つまり、だまされやすい人というのは、嘘つきであり、自分も だまされたがっている人なのだ。それに対して、自分自身に誠実な人間をだますことは難しい。なぜなら彼らは 自分自身を知ることで、人間と言うものが いかに嘘つきか、どういう時に どういう嘘をつくのか ということを知っているからだ。デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」台湾 高士神社の御神鏡ところで 宗教やイデオロギーの信者たちは、たいてい 自分の心の中に 絶対に否定も議論もできない教義を持っている。”タブー領域” である。どんなに賢い人でも、そこへ来ると思考停止せざるを得なくなる。だれかの そういうものに ぶち当たるたびに、ぼくは 何とも言えない空しさを感じてしまうのだ。それゆえ 残念ながら ぼくは、宗教やイデオロギーの信者には なれないのである。