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カテゴリ:制度あるいは教育論
はじめて(と言っていいと思うが)、(今年は)教育について書き出そうと思う。
何を隠そう、俺の生涯の職業テーマは教育である。どのような仕事・プロジェクトであっても、この教育という観点を忘れたことはなかった。そして、年の初めだから書いておくが、近いうちにまた教育について本格的に学びたいという希望を持っている。というか、もう完全にそのつもりだ。というわけで、このブログもそうした方向性に付き合わされることになるだろう。 前回もちょっと書いたが、そうした希望とは別に(いや<身体>的には完全に一致するのだが)、今年は個人的に飛躍の年になりそうで、つまりは多忙ということになりそうで、更新についてはどうなるかわからない。しかし、その際も、計画だった更新になるように努めるつもりである。 ■ナショナリズムをてきとーに考えてみた ところで、どうでもいいことだけれど、ブログ休暇中に戯れに(つまり方法論を無視して)考えたことをちょこっと。 沈黙というのは怖いもので、脳内言語体系にしっかりと位置づけられなかった思考の沈殿物たちというのは、民主制下における代表されなかった弱者層のように鬱憤を溜め、「俺を生み出してくれ、俺を自由にしてくれ」と騒ぎ出す。昨年末からのブログ休暇は、ある種の代表されない<ことば>たちを少しナショナリスティックにしているようだ。 ところで、年初の旅において、ナショナリズムについて戯考した。 温泉地へ向かうバスのなかで地図を広げると細かな市に分かれている(当然のことだけれど)。その名付けという明治期における権力機制を少し横に置いておくにしても、それぞれが特色を主張するのが見て取れた。言うなれば、市同士のナショナリスティックな緊張関係を見て取れる気がした。 例えば、「この市からは福沢諭吉を輩出している」だとか、そういうものだ。言うまでもなく、隣の市と比較されたうえでのアピールのカタチを取っている。 都道府県の(脳内)地図を広げると市ごとのナショナリスティックな緊張関係があり、国の(脳内)地図を広げると県ごとのナショナリスティックな緊張関係があり、(脳内)地球儀を回せば、国ごとのナショナリスティックな緊張関係があって、欧米に行ったことがある人なら、アジアやヨーロッパといった地域ごとのナショナリスティックな緊張関係を持つはずだ。 ここには、全く論理的でないアナロジーが潜んでいる。 本当なら皆、自分を誇りたい。しかし自分を誇れない奴は、例えば、肉親を誇ったりする。「私の子はね、~なんですよ」と。そして、それもできなくなると、「うちの村からは○○が出た」とも言う。大学で上京して、出身県の高校を高校野球で応援し、アメリカに行くと「イチローは誇りだ」とか言う。相手よりも自分が<距離的に>近いものなら、自分が誇ってもいいと勘違いしている奴らであるわけだ。 ちょっとした結論を宣言しよう。 【自分への自信の無さがナショナリズムを生む】 【ナショナリズムは、相手と自分と誇るもの、三者の<距離感>がすべてである】 言えることはひとつだ。 「でも、お前じゃないだろ」 ナショナリズムというのは、結局、自分の責任が及ばないものでさえも、自分のものとして誇ってしまう態度である。自尊心を痛く傷つけられている者に生じ易いというは、こういう機制があるからだろう。一生懸命に「民族」とかいう虚構(妄想)を持ち出したがるのも、そうした本当の目的が明白になるのが怖いからでしかない。 ただ、まあ、ナショナリズムについては逃れうるものなのかどうかよくわからないので、これからも考え続けないといけないだろうとは思っている。 ※上で「言語共同体」という意味でのナショナル性について語ったのではないことは理解を求めておきたい。リベラリズムから派生するこうしたナショナリズムを俺は即座に否定するわけではない。だが、実際問題として、ナショナル性を、そうした<境界>よりも、地図上の<名前>から無自覚に演繹してしまう奴らは多いわけで、現代の政治状況においては、こうした語り方が特に不当というものではないと個人的には考えている。 ■というわけで教育 次回から、俺はちょっとストイックに教育について考えていくことにする。 もったいぶってもしょうがないので書くと、ジョン・デューイ『民主主義と教育』(岩波文庫)を一章ずつ読んで行く。 今回は「序」ということで、ここでは、『民主主義と教育』の「序」からそのまま引こう。 本書は、民主的社会にこめられている諸理念を見出し、明示し、それらを教育という事業の諸問題に応用しようとした一つの努力の表明である。その論議は、この観点から見た公教育の建設的な目標や方法の指摘を含み、また、認識や道徳の発達に関する諸説で、過去の社会情況において定式化されたものでありながら、今なお有名無実の民主的社会において効力をもっており、民主的理想の十分な実現を阻んでいるものについての批判的評価も含んでいる。一読すれば明らかなように、ここに述べた哲学は、民主主義の発展を、科学における実験的方法の発達や、生物学における進化論の諸観念や、産業機構の再編成と結びつけて考え、そして、これらの発展が指示する教育の教材や方法の変化を示そうとするものである。 社会に内在したうえで諸理念を見出し、そこから現状を批判的に逆照射するという方法論が語られている。明日からが楽しみだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.20 20:38:10
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