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カテゴリ:清流(鮎)
過去の鮎記録帳が見当たらずアルバムが出て来た 長年鮎釣りをしていて記録帳が数冊有るはずで探して見ましたが何所に仕舞い込んだか見当たらなかった、現在の釣り座と様子を比較したく、探す途中に懐かしい釣りのアルバムが出て来て記録帳を探す途中でしたがパラパラ見ていて自分の鮎釣りスタイルも随分変わった事に気が付きました、40年程前はウェーダーも布製・シューズも布製・べストもポケットが少なく----笑った、 当時もクロロプレン製は有った記憶ですが若僧は経済的にも買える余裕がなかった時代で・シューズも同様に布製でした、竿も又グラス製で重く1日持って居れば腕が痛い程でした、ラインに至っては最少0、6ー1、0号と太く竿に対応してました、曳き舟は木製の物で自前でこつこつ作った曳き船を使っていました、 それでも長良川の激流から一気に抜き出し黄色した鮎が宙を舞い醍醐味を味わっていました、遡上鮎も多く魚影が何所でも見られ釣り人も少なく釣り座確保も気にせず入川出来たのでした。 時代が流れ仕事に釣りにと寝る間も無く鮎釣り・渓流釣りと飛び回り家族の迷惑も帰り見ず極道釣りが続きたの事は何も知らず釣り一本の生活でした、それでも不思議な事で釣に関しては周囲にも認められ皆さんが集まる様に成りました、そんな事から幼馴染が集まり連れ添って益々釣行時間が増えたのが40代でした、 その頃から渓流釣りも各大会に参加する様に成り「以前(30代)までは源流釣りに出掛けてました」幼馴染と共に大会荒らしの日々で優勝も数回有りました、 渓流釣りではウェーダーは必需品で欠かせず妻におねだりして買った記憶です、郡上ビクは高値の花で釣友の物が羨ましく思っていた時代でした、渓流竿は大会の景品として間に合ってました。 40代後半から仲間を募り「鮎陶会」を結成し30人程のメンバーで大いに鮎釣りが盛り上がり鮎釣り大会・渓流釣り大会と遠征を兼ねての全盛期でした、 この頃から「麦わら帽子スタイル」と成り現在に引き継いでます通常「長良川スタイル」の基本と成りました、あの有名な長良川鮎師(畑中鎮名人)に憧れ麦わら帽子上にタモを乗せて激流に立ち込んだものでした。 50代に入り「中スポ新聞」に鮎釣りグループの活躍ぶりを紹介する応募が有り鮎陶会の活躍ぶりを紹介した処、評価を受けそれを機会に釣り情報の依頼が入り「中スポ釣り記事」を書く事と成りライターとして鮎釣り・渓流釣りの情報を時を見て送っていました。 60代は子供達も成長し経済的にもゆとりが出来益々のめり込む釣りで、鮎竿も(ooかつ)を買う事も出来て釣りが日常生活の一部と成って居ました、時が流れ遠征釣行も多く成り東海4県では物足りなく成り北陸地区まで出掛ける始末、新潟県では死ぬ思いの釣行も経験し我に返ったも60代後半で、その後は地域活動にも参加し現在も続いてます、 釣りグループの代表も遠慮して、間もなく(釣りクラブ)が(飲みクラブ)と変わって行き創立者として残念でしたが解散と成りました、ただ毎年クラブで釣り上げた魚を福祉施設に寄贈して居ましたがこれも無く成り残念です。 70代に入り止められない釣りで鮎釣り&渓流釣りのOFF時は釣りが出来ない事から海釣りを誘われて出掛けましたが本格的な海釣りとは掛け離れ普段着で釣をする雰囲気と夜釣りの釣りには今一の感触から海釣りを断念しました、素人の浅はかな考えでした。 その後、ブログで知り合ったフライ釣り名人(ponpontonda さん)の指導を受け先ずは管理釣りの手解きをして頂き、鮎釣り友でも有る(Zuzu4 さん)&(あといち さん)と皆さんの暖かい指導の元、OFF時はフライ釣りを楽しんでます、5年計画で漸く単独でフライ渓流釣りまで出掛ける様に成りました、 中でもフライ仲間と釣行し尺イワナが掛かった時は天にも登る思いで、普段の渓流釣りでは尺も多く釣りましたが特別な気持ちは生涯忘れません、その後密かに出掛けてイワナを釣りフライの魅力を改めて噛み締めました 鮎釣りは依然止められず現在も続き長良川&益田川を主に出掛けてます、仲間は仲間を呼び退職後は時あらば出掛けてます アルバムを開き最後の自分はこんなスタイルで良く続いたと我れながら極道ぶりにあきれ返ってますが、もう直ぐ75才にして元気に出掛けられるのも家族。妻。釣友・のお蔭と感謝してます。少しフタミナ切れが目立つ様に成り注意して出掛けてみます。 ----久々のアルバムより---- ご協力お願いします。↓ 現在113位 ⇒⇒⇒ 宜しくお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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