カテゴリ:国際政治
スエズ運河余話(2) イギリスによるスエズ運河買収(3)
ところで、イギリス政府です。イギリスの植民地政策の要は、常にインドの保全にありました。そのためにはインド洋を支配することが不可欠でしたから、インド洋に近いエジプトの動向に常に注意を払っていました。 落日のオスマン帝国が宗主権を持つエジプトの太守は、オスマン帝国においては副王の地位にあったのですが、イギリスはそうしたエジプト副王に対し、アレクサンドリアの築港、カイロ~アレクサンドリア間の鉄道の敷設、ナイル河の流域開発などに資金を提供して特権を得ていたのです。 ところがエジプト太守(=副王)は、イギリスにばかり縛られるのを嫌い、スエズ運河の開削権をフランス人のレセップス個人と、彼が設立した「国際スエズ運河株式会社」に付与したのです。 スエズ運河によって、フランスの勢力がエジプトからインド洋に伸びることに対し、イギリス政府は警戒感を強めました。ですからイギリスは、あれこれと露骨にレセップスの事業を妨害しました。しかし、妨害の甲斐もなく、69年に運河は完成しました。完成してみると、喜望峰経由のルートに比べ、イギリスからインドまでの所要時間を40%近く短縮する運河の重要性は、計り知れないものがありました。 ですからイギリスは、何とかしてスエズ運河の運営に参画して、あわよくばその主導権を握りたいと考えるようになったのです。「国際スエズ運河株式会社」の本社はパリに置かれ、会社運営の実権は、理事会が握っていました。その理事の構成は、総員32名のうち、フランス人19人、イギリス人10人、オランダ人1人、エジプト人2人となっていました。 株主構成は、昨日記したように、発行済み株式の44%強を持つエジプトの太守が、ダントツの筆頭株主でしたが、50%以上をフランス人が持っていました、ただし少数株主が分散して持つという弱点がありました。 レセップス自身、株を買い占めれば経営権を奪えるという、株式会社の特性を十分に理解していないという、弱点があったのです。 これがイギリスのつけめでした。チャンスは1875年、運河完成の6年後にやってきました。運河建設、運河に平行する鉄道の建設、そして「アイーダ」を上演したオペラハウスの建設などで、イギリスやフランスからの多額の借金を抱えて手元不如意に陥ってしまった、エジプトの太守イスマイル・パシャは、毎年の高額配当で株価が大きく上昇した「国際スエズ運河株式会社」株を、売却することを望んだのです。 このことを、密かに掴んだ時のイギリス首相ディズレーリは、議会に計ることなくエジプト太守の持つ全株式の購入を決断したのです。資金は友人でもあったユダヤ人の銀行家ロスチャイルドから借り入れたのです。イギリス議会は大人の議会でした。ディズレーリの行動は、原則的には議会無視の逸脱行為だったのですが、後に議会で首相から率直な説明を受けた議会は、スエズ運河を手に入れるか、入れそこなうかの瀬戸際の状況においては、必要な行為であったとして、ディズレーリ首相の行動を是認したのです。 下のイラストは、ディズレーリによるスエズ運河の電撃的買収を描いた『パンチ』誌の戯画です。インドの鍵を喜色満面のディズレーリに、ウィンクするスフィンクス。下に文字で「やったね。いいことあるとおもうよ」と記されています。 40%を超える株式を所有してしまうと、後はフランスの個人株主の持ち株を、丹念に拾うだけです。こうしてイギリスは、76年末までには、「国際スエズ運河株式会社」の過半数を握り、完全に同社をイギリスのものにしてしまったのです。 実質的には、イギリスがエジプト太守の持ち株一切を入手した1975年11月をもって、西洋と東洋を結ぶ世紀の大動脈は、イギリスのものになったのでした。いわば、巨大な株式会社の乗っ取り第一号と言えましょうか。 エジプト政府が持っていた、利益の15%を取得する権利についても、エジプト政府はそれから5年後の1880年に、フランスの金融団体に売却してしまいます。こうしてエジプトの宝とも言うべきスエズ運河は、エジプトにとって何も産まない存在となってしまったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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