カテゴリ:国際政治
クロニクル ポツダム宣言発表
1945(昭和20)年7月26日 ベルリン郊外のポツダムで、この月17日から会談中だった米・英・ソ3国のうち、米・英2国は、中国の蒋介石には電信で知らせて了解を採り、なお交戦中の日本に対する降伏勧告と、降伏条件を米・英・中3国の名で、この日発表しました。69年前のことです。 一緒に会談中のソ連の名がないのは、日ソ間には交戦状態がなかったからでした。中国の蒋介石は、会談の席に中国代表を招かず、電信での通告で同意を求める米・英のやり方に不快感を表明しましたが、宣言の内容そのものには同意を表明しました。 さて、このポツダム宣言の内容ですが、前文で日本の軍国主義者のこれ以上の抗戦の無益を説き、日本は破滅か理性的な降伏で国土の全面的な焦土化を防ぐか、二者択一に迫られていることを指摘し、以下の条件を提示しています。 (1)日本の軍国主義の除去、(2)平和で安全な新秩序が構築されるまで、連合軍による占領を受け入れること、(3)カイロ宣言による領土制限の受諾(明治以降の戦争で獲得した領土のうち、交戦状態にないソ連(旧ロシア)から獲得した南部樺太を除く全領土の返還と朝鮮の独立承認を求めた宣言)、(4)日本軍の武装解除と兵士の復員、(5)戦争犯罪人の処罰、(6)民主化の徹底と基本的人権の確立、(7)再軍備の禁止 そして、占領中も占領軍に依る直接統治を行なわず、日本人に依る政府を認める間接統治方式をとることも匂わせていました。 日本固有の領土の割譲が要求されていないこと、賠償請求のないことなど、降伏条件としては、当時の戦況からして極めて緩やかな内容であることが、良く伝わってきます。これは、2月のヤルタ会談における、ドイツ降伏後3ヶ月以内に日ソ中立条約を破棄して参戦するという、米ソの密約の期限が迫り、ソ連の参戦が目前に迫っているという状況を踏まえ、米国が戦後の対ソ関係を考慮して、日本を自陣営に留めることを目指していたからです。 しかし、戦局の不振にいらだち追い詰められていた当時の軍首脳部は、ポツダム宣言に込められていた米国のサインを冷静に受けとめる能力を失っていました。軍部は、戦犯の処罰という項目に拘り、この戦犯に天皇が含まれるのか否かという点に拘り、天皇の処罰なしの確約が得られない限り、ポツダム宣言を受諾出来ないとする姿勢を貫き、国民に対しては、宣言の内容を発表すると共に、「政府はこれを黙殺する」との談話を発表しました。連合国はこれを拒否と受けとめ、対日攻撃を続けました。 ソ連参戦を出来れば避けたかった米国も、日本の頑なな態度から、日本降伏の決定打がソ連の参戦であったという印象が広まるのを怖れ、完成したばかりの原子爆弾の投下を決定しました。広島を廃墟とされ、ソ連も参戦し、さらに長崎に2発目の原爆が投下されました。ソ連軍は怒涛の勢いで満州に展開した関東軍を蹴散らし、朝鮮半島の北部にまで達します。 日本がようやくポツダム宣言を受諾して降伏したのは、こうした事態が進んだ後でした。 軍首脳の自己保身と、冷静に彼我の力関係を分析する能力の欠如(つまり無能!)、そして天皇に近い政治家の軍部と対決しても事態を打開しようという強い政治的意志と責任感の欠如が、ポツダム宣言発表後の事態の推移の中に見てとれます。こうした無能な軍人や政治家の誤った判断の結果、日本は原爆の被害とソ連に抑留された人々の苦難を産み、そして朝鮮半島の人々は今日なお南北分断の悲劇の中に置かれ、そして子どもを拉致されて苦悩する親たちもいる状況が残っているのです。 私は、大都会を中心とする米軍の空襲や原爆の投下に対し、今でも強い憤りを覚えますし、米国政府に対し、例え対米関係を一時的にこじらせたとしても、こうした住民虐殺に対し強く抗議し米国大統領の広島・長崎への訪問と、日本国民に対する謝罪を要求すべきだと考えています。 そして同時に、当時の軍人や政治家の戦争責任をしっかり追究して、彼らの自己正当化発言の不当性を厳しく追及すべきだと、考えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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