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カテゴリ:会津への道
明治26年12月8日、読売新聞に広告が載った。
老公本日特旨を以って正三位に御□叙被遊候に付此殿□藩諸士に広告□ 小石川区第六天町 松平容大 家令 明治二十六年十二月四日 そしてその隣に黒枠で囲まれた広告が二つ。 正三位松平容保儀病気の処養生不相叶本日午前十時薨去候に付来る九日午後十二時三十分小石川区小日向第六天町自邸出棺内藤新宿北町正受院に於て神葬式執行致候此段広告□ 親戚 伯爵 徳川達道 子爵 松平義生 老公御病気の処本日午前十時薨去被遊候此段藩諸士へ広告□ 但来九日午後十二時三十分小石川第六天町御邸御出棺内藤新宿北町正受院に於て神葬式御執行の事 小石川区第六天町 松平容大 家令 明治二十六年十二月五日 12月9日と二日続けて新聞に広告が載りました。 最初のは容保候が正三位に叙せられたお知らせ。 あとの二つは容保候の訃報。 「明治元年12月7日詔書以て松平肥後守容保の死一等を減じて首謀者の臣を誅する」 これは明治元年12月に新政府軍が出した容保候の処分の内容。 新政府軍幹部が揃って容保候の厳刑を望む中、明治天皇の鶴の一声で決まった処分。 年若く、新政府軍に良いように利用されてしまったと思っていた明治天皇だけれど、容保候を初め東北諸藩の処分には自分の考えをこんな風に主張している 在廷の百官将士に松平容保初め伊達慶邦等の罪を議ぜしむるに何れも厳刑に処せられたい、就中(なかんずく)容保の罪は天人ともに容れざる所死猶余罪ありと奏す。 然るに朕不徳にして教化の道未だ立たず、此の罪案が生じた且つ容保の如きは門閥に生長して人爵を有する者であるから、今日の事は彼れ一人が為した所ではなく、要するに必ず首謀の臣があるに相違ない。因て其情を憐み其法を假し容保の死一等を宥し首謀の臣を誅し非常の寛典に処する 朕も亦自ら情勵治を圖(はか)り教化を国内に布き徳威を海外に輝さん え~と、つまり… みんなが容保の罪は死をもってしてもあまりあるから厳刑にしろというが、自分は首謀の臣のせいだろうと思う。だから容保は寛大な処分にしてやろうと思う。ってな感じでしょうか(←すんごい意訳) その後、容保候は明治9年11月に従五位、明治20年には従三位となりとうとうこの年正三位になりました。 もともと罪なんてなかったから当然といえば当然さ。 でも桂小五郎も周りの状況から容保候の死は仕方ないと思っていたらしい。 それをひっくり返しちゃうんだからえらいもんだ。 その代わりに家老萱野権兵衛さんが切腹になっちゃったんだけど、これも明治2年5月14日に馘首命令(斬首ってことよ)だったんだけど、保科家の温情で切腹のカタチをとりました。 明治26年12月8日の新聞には「被服古品競売広告」by歩兵第一連隊なんてのがあったり洋菓子の広告、鉄道の広告、江戸時代の「風俗画報」なんてのまで。 日々、江戸時代が遠くなり新しい時代に塗り代わって行く東京をどんな思いで眺めていたのか。 最後にその胸中によぎったものはなんだったのでしょうかネ… *□は読めなかったトコです…。 「会津史談会」より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年08月26日 19時59分37秒
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