|
カテゴリ:土方歳三
おなかが痛い
ま、\(^_\)ソレハ(/_^)/コッチニオイトイテ 土方家の祖は永禄まで遡る 永禄ってのは1558~1569年。 時は戦国時代。 応仁・文明の乱(1467)の後、関東は山内上杉・扇谷上杉両家が主導権争いに明け暮れていた。 混乱する関東で山内上杉家の守護代として滝山城を本拠地にその地域を支配していたのが大石一族であり、扇谷上杉家の家宰(家老のようなもの)として活躍したのが江戸城の太田道灌である。 その太田道灌が謀殺されると扇谷上杉家は次第にその勢力を失っていった。 一方の山内上杉は伊豆から小田原に進出してきた北条早雲らと覇権を争い北条氏は関東各地にその支配を広げていった。 支配地は伊豆、相模、武蔵と拡大し上野、下野、常陸の一部までに及んでいく。 当時日野は山内上杉氏の臣、滝山城の大石定久が支配していたが北条家3代目当主氏康の息子で4代当主氏政の弟氏照を養子にし北条氏に帰属してゆく。 氏照は永禄2年(1559)20歳の頃滝山城主としての実権を握り青梅地域の杣保(そまのほ)の三田綱秀攻略を本格化させ永禄6年(1563)二俣尾の辛垣城(からかいじょう)にこもった秀綱を破り永禄7年(1564)には里見氏と、天正2年(1574)には簗田氏と戦い滝山城領の支配を完成させてゆく。 また父氏康、兄氏政と共に関東における北条氏の支配拡大に関東各地に出兵を繰り返し上杉謙信、武田信玄、徳川家康、織田信長、伊達政宗とも外交、同盟、あるいは敵対し滝山城の拡大、八王子城の建設を行っていった…。 へ~そうだったのか この時代はニガテなんだよな そんな中日野はどうなっていたのかと言うと…。 佐藤隼人(日野宿名主佐藤家祖)、平野豊後守、福島右近、竹間加賀入道らの名前と共に田村氏平山氏平野氏そして土方氏などが北条家の勢力を支え氏照の出兵や築城に影響を受けた人々としてその名が伝わっているらしい。 その土方氏。 これが歳三さんの先祖らしいんだな~。 「三沢郷十騎衆」と呼ばれるヒトタチの中にこの「土方氏」が在って 「三沢郷の者は知行地が無いけれど今後の働きで知行地を与える」という書状が残っている。 その後、「出陣のときは軍装を整え武士らしく働かないと知行を召上げるゼ」となり、「土方弥八郎」に「夜中でも触れが出たらちゃんと支度して来い」と書状を出したりしている。 挙句「土方善四郎」には「小田原の陣へ触れが出たら新しい小旗で参戦しろ。古いのは使うな」とまで言って来ている。 そして最後には「当郷の侍・百姓共「為男程之者」(15歳~70歳までの男子)は皆参戦しろ」とまでいいます。 この氏照サン、結構人使いが荒い上に見てくれにこだわる人なのか それとも当時の武将としては当たり前なことなのかその辺りはよくわかりませんが、な~んかオモシロイデス とはいえ、天正18年(1590)豊臣勢に攻められた氏照は小田原城に詰めたため6月23日、北方隊(上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら)によって八王子城は陥落した その八王子城攻防戦は悲惨を極めた。 氏照の代わりに戦ったのは城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約1000人 城内に立て籠って戦ったが、豊臣連合軍は力攻めによる殲滅作戦を展開。 城内の婦女子は自刃し、御主殿の滝に身を投げたため滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている。 城代の横地監物吉信らは豊臣勢への突撃を敢行したものの力及ばず、小河内村付近にて切腹している。 いつの世も戦いは非情。 そして小田原城も開城。北条当主・氏政とともに氏照は切腹した。 北条氏に代わり領主となった徳川家康は八王子城を廃城とした。 八王子城は廃城となったが滝山城はそのまま歴史に埋もれました。 お陰で今もその跡を見ることが出来ます。 ただし探検するには日を選び、よく知るガイドさんに案内してもらうことをオススメします。 なんといってもキケンだから ところでこの氏照サン。通称は源三という。 だから大石定久の養子になった時「大石源三」(のち「大石陸奥守」)となる 北条は平姓だから「北条源三」とは名乗らなかったそうだ。 …結局このヒトは「源氏」なの「平氏」なの ふぅ。ニガテな戦国時代のオハナシでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年01月14日 01時10分44秒
コメント(0) | コメントを書く |
|