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カテゴリ:幕末関連書物
骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと
前から一度読んでみたいと思っていた一冊。 友人に借りて読みました。 内容は良く知られているように、増上寺に埋葬された歴代徳川将軍と正室・側室の墓所を改装するに当たってなされた調査報告。 知らなかったんだけど他に、尾張藩主・徳川慶勝父子、伊達家三代、高遠藩主・内藤家、沼津藩主・水野家、長岡藩主・牧野家、黒田藩家老久世家などの大名の骨も調査しているのだ。 写真がふんだんで読みやすいのだけれど、なんてったってホンモノのガイコツの写真のオンパレード 発掘当時の様子って結構リアルです。 中には髪の毛の付いた頭蓋があったりで、人目のあるところではちょっと開くのをためらわれる一冊。 専門用語(?)が多く、理解できない部分も沢山あったけど興味深い内容でした。 将軍、大名は江戸初期から末期にかけてかなりな変化(進化?)を遂げた。 簡単に言うと「物をかまない生活になっていった」ってコト。 将軍の食事ってヤツは、ものすごくやわらかいものばかりだったらしい。 歯の磨耗がほとんど無いんだって 将軍の骨格を「貴族形質」として、一般人を「庶民型」とするなら親藩→譜代→外様の順番でより「貴族形質」に近い。 それも幕末には一層その傾向がある。 骨格の形成には生活習慣が大きな影響を与えると言うことが顕著にわかるなぁ。 正室・側室たちの調査はもっと興味深かった 正室はその身分や勢力関係だけで選ばれていたのかと思ったら骨格的に似ているタイプを選んでいた傾向があると言う。 側室にいたってはソレが大分重視されたらしいと言うのだ。 興味深いでしょ 埋葬方法も驚いた。 将軍家には決まりがあってそのとおりに代々葬られていたと思っていたが、結構まちまち。 基本的には石室があって同じなんだけど、蹲踞だったり胡座だったり。 保存状態も関係あるので一概には言えないとは思うけど、副葬品や衣装もまちまちだったようだ。 どちらを向いて埋葬されていたかと言うのが最大の関心事だったのだけれど、それは書かれていなかった…残念 天海の意思がどこまで引き継がれていたのかを知るいいチャンスだったんだけどな 昭和20~30年頃に行われたこの調査、今の技術でもう一度調査できたらさらに興味深い事実が沢山わかったかなぁ。 でも。 その人のことを知りたい。すべて知りたい。何もかも知りたい。と思う気持ちはあるけれど、 カラダを引き裂き、骨を取り出して数字に並び替えて分析するコトとは違うから。 こういう「やむをえない改葬」の機会以外ではやらないで欲しいと思ってしまいます。 鈴木尚 東京大学出版会 2010/2/27追記 尾張徳川西光庵の慶勝・義宜親子は昭和28年4月28日から改葬のため調査されました。 高遠藩内藤家は藤原秀郷の子孫。5代目の孫、行秀が内藤検校と言われたのでこの称号により「内藤」の姓としたと言う。 正徳4年(1714)6代清枚死去の時太宗寺へ葬られ、以後同寺は内藤家の菩提寺となる。 昭和27年、都の区画整理により、新しい道路が墓地を貫通することになり12月20日~1月7日にわたって改葬が行われた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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