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ちほの転び屋さん日記

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ちほころ@ Re:御礼(04/13) 大杉先生 わざわざコメントくださりあり…

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2006年04月16日
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刑法総論の理論構造刑法総論で真剣に取り組みべき教科書の一つ。現時点のあたしに、内容をあれこれいう能力はないのだけれど、結果無価値論に対する過度の決めつけは、割り引いて読んだ方がよさそうです。結果無価値論をとったからといって、国民に対する行動基準を提示しないなんてことはないでしょう。どういう結論になるか決まってさえいれば、わたしたちはそれに従って行動せざるをえないわけだし。そもそも、神々の学説争いが、どの程度専門家以外の人の行動に影響を与えているのか、疑問ですけども。

行為無価値一元論で何が悪い、と井田先生が言ってくれたらどれだけすっきりすることか。や、別にあたしが一元論を支持しているということではなく、井田先生の刑法体系からすれば、一元論をとったほうが素直だと思うからです。





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最終更新日  2006年04月19日 00時51分32秒
コメント(7) | コメントを書く
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色々とコメント   emonue さん
 結果無価値論への「決めつけ」として分かり易いのは、例えば、 「回顧的な応報刑論を基礎とする結果無価値論の立場からは条件説に帰着するのが当然であるが、せいぜい刑法の謙抑性という外在的原理に基づいて相当性(…)による限定が説かれるに過ぎないことになろう」(48頁)といった記述がなされているところですね。
 井田先生は、自説も他説も理論的に純化させて考えるので、政策的考慮・外在的原理による修正があり得たとしてもその見解は「成り立たない」と考えるのかも知れません。一般に議論されているところの随分と手前で議論を打ち切る印象があり、特に結果無価値論をとる方にとって、肩すかしをくらったような印象は多々あるように思います。
 その意味で、「結果無価値論に対する過度の決めつけは、割り引いて読んだ方がよさそう」というのは正鵠を射ていると思います。

 また、これまでの二元論よりも行為無価値論を前面に押し出していて戸惑う面もありますが、あくまで二元論に立脚することを随所で強調されていますね。

 あと、エントリの中で言及されている「行動基準」云々についてですが(読み違え、『釈迦に説法』の点は、ご容赦を…)、ある結果が不可避的に発生する場合に(「どういう結論になるか決まって」いるとはこの意味でしょうか?)人が特定の行動を余儀なくされるとき、その『特定の行動』の内容が行為基準として提示されているという趣旨でしょうか?
 だとすれば、井田先生のいわんとする行為基準(行為規範)とは質的に異なるもののように思います。
 行為無価値論のいう行動基準・行動規範は、それに違反したことが違法性の内容となのであり、違反しても違法性を肯定されない「行動基準」は、行為無価値論の想定しているそれとは異なると思われるからです。
 この問題は、違法性論ではなく、責任論において扱われる問題であるように感じます。 (2006年10月31日 14時28分40秒)

コメントありがとうございます。   ちほころ さん
漠然と思っていた「決めつけ」の具体例をあげてくださってありがとう御座います。
結果無価値論に対しては、誰も採らないような極論に仕立て上げて批判するのに、自説の二元論は、応報的側面から結果無価値が要求される「場合もある」(15頁)などというものなので、他説にばかり厳しいなと感じてしまったのです。

「行動基準」について私が言おうとしたことは、
井田先生も含め行為無価値論から結果無価値論への批判として、違法かどうかが行為の時点で決定されない結果無価値論は、行為者に対して何ら行動基準を示さないから不当である、というものがあると思いますが、
結果無価値論をとったとしても、あらかじめ要件が明確に定められている限り、私たちは、どういう場合に処罰されるかが分かるのであり、それを行動基準とすることができるので、「行動基準を示さない」ということはないんじゃないかということです。
人の殺害という結果を生じさせたら違法、という規範を示されれば、我々は、人を殺せば処罰されるから人を殺すような行為はやめようと思うわけで(我々が普段人を殺そうと思わないのは倫理や道徳の力であって刑罰があるからではないという話はおいといて)、きちんと行動基準として働いているわけです。

結果無価値論では、行為者が不意打ち的に処罰されるのを防ぐ機能を果たすのは基本的には「責任論」であって、何でもかんでも「違法論」で解決するわけではないですよね。事前に違法かどうかが決まらないにしても、事前に処罰されるかどうかが予測できれば十分だってことです。 (2006年10月31日 23時30分48秒)

コメントありがとうございます。つづき   ちほころ さん
確かに、「行動基準」をそれに違反したことが違法性の内容になるというものだと定義づければ、結果無価値論は行動基準を示さないということになりますけど、その定義づけ自体が行為無価値論の手前みそですよね。手前みそな定義で結果無価値論を批判してしまうのが、決めつけだと思うんです。
emonueさんが井田先生のいう行動基準の定義を明示してくださったのでよく理解できたのですが、井田先生は、行動基準という一般的な日本語を、行為無価値論を前提とした特殊限定的な意味合いで使っているのにもかかわらず、あたかも結果無価値論が一般的な意味での行動基準さえ示せてないかのような批判をしているのが引っかかったようです。

以上、刑法についてはしばらく考えてなかったので、不十分な記述にとどまっていますが(故意犯の場合だけでなく過失犯の場合に、新過失論が旧過失論に対して行動基準を示せてないと批判することに対して、新過失論だって一般人にとっては大して基準にもなってないんじゃないのとかってことも検討すべきなんでしょう)、とりいそぎコメントにお返事をさせていただきました。

余談ですが、最近川端博先生が出された「疑問からはじまる刑法」は、難易度的にもほどよく批判的検討にも適してそうなので、しばらくしたら読んでみようかと思っています。
(2006年10月31日 23時31分10秒)

Re:コメントありがとうございます。つづき(04/16)   emonue さん
 最近刑法からはなれていらっしゃるというところに度々申し訳ありませんm(_ _)m

 ちほころさんが指摘されていたのは、「国民に対する行動基準の提示という機能を違法判断に求めてはならない、それは刑法と道徳の混交をもたらすという主張を導くのである」(4頁)の部分ですね。

 井田先生は、おそらく、『法益侵害結果を生じてはならない』という行動基準が提示されているとしても、全く予期せぬ結果が生じた場合でもとにかく結果を惹起した以上違法と評価されるならば、それは「行動基準」というに値するのか、と考えているように思われます。
 ちほころさんの、井田先生は「行動基準」という言葉に断りなく独自の意味を込めている、との批判が妥当しますね。

 ところで、ちほころさんの「人の殺害という結果を生じさせたら違法、という規範を示されれば、我々は、人を殺せば処罰されるから人を殺すような行為はやめようと思う」という発想は、まさに井田先生の提唱される行為無価値論(規範的一般予防論:規範による行動コントロールを手段とする法益保護)と一致します。
 事前に違法と分かるようにすべきか、処罰されることさえ分かれば良いか、まさに行為無価値・結果無価値の根本的対立の話をしながらも、その溝は以外に浅い、ということの表れなのでしょうか?
 深入りは怖いですが、興味深いところです。

「行為者が不意打ち的に処罰されるのを防ぐ機能を果たすのは…」以下のご発言も、それを認めるか否かが行為無価値・結果無価値の一つの分水嶺になっているのだな、ということを再確認させられます。
 非常に勉強になります。

 疑問からはじまる刑法」のレビュー、楽しみにしております。
  (2006年11月01日 15時45分09秒)

Re[1]:コメントありがとうございます。つづき(04/16)   ちほころ さん
いきなり話は飛びますが、たとえば因果関係論でもあれこれ対立があって互いに批判しあっているわけですが、犯罪が成立するかどうかは因果関係だけで決まるわけじゃないから、因果関係だけを視野に入れて議論しても意味がないと思うのです。

抽象的なものいいになりますが、人を処罰するにはABC3つの要素をみたす必要があると仮定して、因果関係にAの有無を判定させることが正しいのか、AとBの有無を判定させることが正しいのか、なんてことは決めようがないですよね。まあ、因果関係という言葉にそぐわないものまで含ませることはできないんでしょうが。
批判できることは、論者が「因果関係にAの有無を判定させる機能を与えるべきである」という前提をとりながら、実際にかかげられた規範がAの有無を判定できないようなものだった場合や、論者の犯罪論全体をみてもABの有無しか判断できない場合ですよね。

もちろん、そもそもの前提として、人を処罰するのに必要な要素としてABCだけで足りるのか、あるいはABだけで十分なのかって議論もありますが、それは因果関係論の中でやることではなく、犯罪論全体の問題なはずですよね。

で、井田先生の結果無価値論批判は、「違法性にはABの有無を判定する機能をもたせるべきである。しかし、結果無価値論では違法性にAの有無を判定する機能しかもたせていなから不当である。」という批判にすぎないんじゃないかと。結果無価値論ではBの有無を判定する機能は責任論が果たしているかもしれないことを度外視してしまっていると。

井田先生の本に対してあれこれ批判をしてしまっていますが、他の人に比べれば圧倒的にはっきりとした物言いだと思いますので、どこに問題があるんだか分からない人の本を読まされるのとは全然訳が違いますよね。 (2006年11月02日 18時37分19秒)

Re[2]:コメントありがとうございます。つづき(04/16)   emone さん
 補足だけさせて頂きます。
>井田先生の結果無価値論批判は、…
「…という批判に過ぎない」とした点がまさに犯罪論では大問題として争われてきたように思います。犯罪不成立でも違法性阻却か、責任阻却かでは意味が大きく異なるということは、結果無価値論でも当然意識されているところですし(例えば、「許された危険」の法理の提唱)。

 それと、少なくとも因果関係論において、井田先生(を含む多くの行為無価値論者)は「結果無価値論ではBの有無を判定する機能は責任論が果たしているかもしれないことを度外視」してはいないと、私は理解しています。
 行為無価値論に支えられた折衷説の立場が因果関係論において加える限定と同じことを、結果無価値論に支えられた客観説の立場が責任段階において行っていること、及び、そのため結論に差は生じないことを認識した上で議論がなされています(井田58頁)。

 これまで、行為無価値論に立脚する法律書では理論的に詰められていない印象を受けることが多かったのですが、理論が精緻な分、他説との違いも先鋭的に明確になっていると感じる本です。
 刑事法ジャーナルで刑法各論についての連載が行われていますが、こちらも面白いです。季刊発行の雑誌なので、完結に相当時間がかかりそうですが…。 (2006年11月05日 12時11分58秒)

Re[3]:コメントありがとうございます。つづき(04/16)   ちほころ さん
私自身も行為無価値論に対する過度の決めつけをしているようですね。反省。

ただ、結果無価値論対行為無価値論という図式だけではなく、違法阻却とするか責任阻却とするかに本質的な違いがあると考えるか、それとも単なる役割分担にすぎないと考えるか、という図式も設けたほうが見通しがよくなるかもしれない、と思いました。
とはいえ、役割分担にすぎないなんて考える人は私ぐらいでしょうか。

井田先生の連載はちゃんと読んだことはありませんが、私も早期に完結されるのを期待してます。自殺関与罪のところで、以前私が書いた日記(http://plaza.rakuten.co.jp/chihocoro/diary/200604250000/)と似たようなことが書いてあったような無いような(手元にないのでうろ覚え。違ってたらすいません)。

川端先生の本はコンセプトは非常におもしろいのですが、本文はどうしても従来の行為無価値論の枠組みであって、あまり楽しくなさそうでしたので、買うのをやめました。
何か読み応えのあるいい読み物があったらおしえてください。 (2006年11月06日 12時14分59秒)

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