水原紫苑 「くわんおん」より
水原紫苑(みずはら・しおん、1959-)ひさかたの月を抱いだきしをのこらの滅びののちにわが恋あらむいつはらぬわたくしといふけだものの黄金わうごんの尾に病やまひひそけし魚のごと醜しといはれひたねむる歳月みづのきららかさにてひと恋ふる三日月ならむひそやけく繊ほそき四肢見ゆあくがれつるに星の刃にこころを研ぎしうたびとのひさしき恋をわが恋とせむ降りいでて雨は失ふいのちなれ花野にとほく礼楽ありぬ「くるしみは汝なが面上に在るものを何をか伝ふ 時こそ妾わらは」秋の日のひたかがやくにラブレーの糞尿語りなつかしきかな木の実食はみゐし前さきの世のこと抱擁のさなかに思ひいでてすずしも血流のしづかなる夜のかなしみを神は知らずも観音は知るはつかりのはつかに見えしくれなゐは汝ながうつしみのいづこともなし註現在トップランナーの、自他ともに認める驚異の天才女流歌人。紫式部といい勝負じゃないかとすら思う。・・・密かにお慕い申し上げている僕などが何らかの論評を加えるのも恐れ多いという気さえするが、ラブレーやロートレアモンなど広汎なフランス文学の素養の上に、日本古典文学の渉猟から得られる詩を、説明的な語句を排して呈出するため、きわめて難解晦渋ではあるが、前人未踏にして現代的でもある最尖端の言語世界が現出している。また、これらのことから、いわば正気と狂気の交錯、幻想性、およびエロティシズムは当然の要素である。平安女流文学はもとより、中世の能楽・謡曲(観阿弥・世阿弥)などの幽玄微妙な境地を、近現代世界文学の潮流の中で再照射している、というような感じ。彼女の短歌作品は、あまり論理的に理解しようとせず、高度な言葉とイメージの遊びとして、そのまま受け容れるのが早道であろうと愚考する。歌壇的にも、あまりの天才ゆえに孤高の存在であり、また気が強く、短歌雑誌の対談などでは大御所歌人に対して平然と突っかかったりする猛女でもあり(?)、けっこう美人でもあるのに、男たちも憧れて遠巻きに眺めながらも二の足を踏んで、もらい手がいないのは、お気の毒だよ~ん。・・・かわいそう。才女の悲劇。誰か、死んだ気になって、彼女に女の幸せをもたらしてやってくれい!!!歌集「くわんおん(観音)」(1999)