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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年02月26日
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カテゴリ:城(九州)
門司城福岡県北九州市門司区大字門司字古城山
(住所をクリックするとMapfanにリンクします)

※「赤間ヶ関編(34)」からの続きです。

めかり山荘前の駐車場から見た古城山のピークはこんな感じ。

   古城山ピーク

下から見上げると高く見えるし、げんなりもするけど、
この位の高さならすぐ登れそうだな。
先人の訪城記を読むと、だいたいこの場所から10分くらいってあったし。

めかり山荘前の道を道なりに進んで、右に曲がる道の正面に
ちゃんと案内が立ってる。

   門司城跡へ

 【門司城(門司関山城・亀城)

  門司城は、最初平知盛が源氏との戦にそなえて、長門国目代紀井通資に
  築城させたといい伝えられている。
  寛元2(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、
  鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向。
  のち門司6ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により
  門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の
  5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって
  北九州の地に続いた。

  その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の
  吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝方の伊川系門司若狭守親頼は
  猿喰城に籠り、骨肉の争いとなった。

  室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって
  毛利氏が争奪することろとなり、当城はその渦中に置かれた。
  ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、
  ちなみに『後太平記』には、「昔、源平両家此処にて軍せしも、時こそ替れ
  是にけよも勝らし」とその戦況を記している。

  その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊後入国後の
  元和元年(1615)年、一国一城の令により、およそ400年におよぶその歴史をとじた。】
  (北九州市教育委員会による石碑より)

文字色の変わっているところは、あとあと話が出てくるキーワードです。


下総親房(しもうさ・ちかふさ)がこの地に任じられて門司氏のスタート、
と解説にあるが、西国との関わりは親房のじいちゃんである中原親能による。

中原親能(なかはらのちかよし)は公家の出とも言われる人で、
頼朝の代官として貴族との交渉にあたるなど、源家の信任が篤かった。

親房の父も、九条兼実などメジャーな公家との太いパイプを持っていたので、
義経が初めて上洛した際には、都人は無名な義経などには目もくれず、
親能が源氏軍の総大将だと思っていたなんて面白いエピソードがある。

この親能が1195年に鎮西奉行となったのが、この地とのお付き合いのはじめ。

余談になりますが、親能の弟といわれるのが大江広元。
この大江広元さんは毛利氏の祖といわれている人なので、
門司氏と毛利氏は遠い先祖が兄弟だったってことになるんですね~。


しかし、古い名家で、良い場所に本拠地を構えた門司氏の不運は、
どうも立地条件が良すぎたことにあるようですね。

物事には二面性があるってのは、いつの時代も同じじゃな~。

日本地図を見てもらえばわかると思いますが、
この門司はまさに赤間ヶ関の喉元にあたる重要な地。
「あそこを是非とも押さえたい」って周囲がちょっかい出しまくりで、
ために常に争乱に巻き込まれ疲弊を早めたんじゃないかと言われている。

それから、上の解説にもある「骨肉の争い」ね。
門司氏はなにやら複雑で、そこへさらに南北朝スパイスがかかってるもんだから、
ちょっと説明は困難です(←なげやり)。

猿喰城が出てきたから、その辺だけちょっと・・・


猿喰(さるばみ)城は、門司城よりもっと南にある山城。
その近くに柳城。
いずれも門司城の出城として築かれた城で、ともに南朝方だった。

門司城主は大内弘世と組んで、北朝方。

ここからは門司さんちの通し字「親」があふれてきて読みづらいと思うので、

 猿喰城方/南朝=(猿)
 柳城方/南朝=(柳)
 門司城方/北朝=(門)

と省略させていただきますね(笑)。

1363年、(門)と大内さんちのひろよんは、柳城攻めを開始。
(柳)は頑張ったので、ひろよん負傷。
ひろよんの子・大内満弘は(柳)の寝返り工作を始める。

その結果、(柳)は陥落。
今度は(柳)が(門)と大内軍を手引きして、猿喰城へ攻め入る。
(猿)の城主以下73名全員が討ち死に、猿喰城は落城。
これにより、大内氏は豊前進出の足がかりをつかむ。

猿喰城登山口近くの七ツ石峠というところには、七ツ石と呼ばれる
7つの墓石が立っているが、そこで7人の武士が亡くなったといわれ、
7人の霊を慰めるために建てられたとのいわれがあるそうな。


猿喰城ね、ホントは行くはずだったんだ。
一旦、それで予定組んだの。
ところが、確かプロローグあたりにも書いたと思いますが、
土壇場になってどーしても外せないスポットが出てきてしまったので、
大幅に予定変えたんだよな~。

まあ、猿喰城の兵たちはみんな恨みを抱いて死んでいったとも言うし、
結構山の中みたいだから、できれば連れがいた方が望ましいとも思ってたしね。


とまあ、こんな一族での争いも、ヒトとカネの消費が大きく、
その後の発展の障害となったと見られている。

ただ、どこの家だって事情はみんな似たようなもんなんだから、
それでもそこを生きぬいて戦国大名にまでのし上がった家系ってのは、
やっぱりしぶとい・・・あやや、すごいものなんだなあと改めて思うけどね。

それでも門司氏は滅亡した訳じゃない。
大内→毛利と主家を変え、また門司氏の支流は立花・宗氏・宇都宮・宗像などに
仕え、家系を存続させていった。


また余談になりますが、和布刈神社にあった宗祇の句碑は、
門司での第一夜のもの。
その翌日も門司さんちで世話になり、

     戸さしせぬ 関に関もる もみぢかな
という句を残している。

2日目の門司さんちは、能秀(よしひで)さんのおうちだったんだけど、
この能秀さんは大内家でも重要な政務にあたっていた人らしく、
また歌道の達人でもあったと。

連歌が当時の教養だったって言ってもねえ~、
この頃の人って、ホントにマルチな人が多いよね。

ま、中には愛すべきぶきっちょさんもいたでしょうけど・・・
ただ、あまりなぶきっちょさんは、名を遺すチャンスに乏しかったと
思われるけど。
シビアな世界じゃなあ~。

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最終更新日  2012年12月02日 23時14分41秒
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