カテゴリ:城(中国)
備中松山城<岡山県高梁市内山下>
(住所をクリックするとMapfanにリンクします) ※「吉備路編(3)」からの続きです。 松山城へのアクセスはいくつかある。 早めに切り上げたいとは言っても、どうせ山内ではまったりしちゃうんだろうから、 時間短縮のために行きはタクシーを使った。 バスでもタクシーでもマイカーでも、 車で上がれるのは8合目にある「ふいご峠」まで。 ここからは自分の足で歩く。 駐車場に立つ看板には、臥牛山の全体図が載っている。 【鞴(ふいご)峠 (現在地 標高290メートル) 臥牛(がぎゅう)山 古くは「松山」呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ていることから 「臥牛山」と呼ばれている。北から大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの 峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ断崖を擁した天然の要害。 明治維新後、ただちに国有林に編入されたため、ほとんどが自然林として残り、 多種多様な植物相を呈している。岡山県の中部高等植物は、全部で133科927種類が 確認されている。 動物も豊かな餌植物により多種多様なものが混在し、古くからニホンザルの生育が 知られる。古い記録には猿谷(ましらや)の地名も残り、概ね全山が 「臥牛山のサル生息地」として天然記念物生息地の指定を受けている。 昆虫類も豊富で、158科1,695種類が確認されている。(後略)】 (現地解説板より) 大体、解説板の文章とかは内容が重複しない限り おおむね全文引用してきたけど、広い臥牛山の中で今回行くのは ほんの一部だし、結構長文の解説なんかもあったりするので、 松山城シリーズに限っては若干割愛するかと思います。 あらかじめご承知おきください。 で、上の図の中で主要なものについては解説がある。 【大松山城跡(大松山山頂 標高約470メートル) 臥牛山の主峰「大松山」山頂。延応2年(1240)有漢郷の地頭 秋葉三郎重信が 臥牛山のうち、この大松山に砦を築いたのが備中松山城の創始と伝えられる。 現在も随所にその跡をとどめる。 天神の丸跡(天神の丸山頂 標高約480メートル) 臥牛山の支峰「天神の丸」山頂。中世~戦国時代には大松山の出丸として積極的に 利用されていたことが知られているが、近世になって「天神社」が営まれ、 信仰の対象となっている。現在もその社殿の跡と手水鉢が残る。 相畑城戸(あいはたきど)跡(標高約440メートル) 天神の丸から小松山へ続く尾根上にあたる。天正2年~3年(1574~1575)に起こった 松山合戦(備中兵乱)の古戦場で土塁など残るが、近世になって積極的に利用されて おり、近世城郭(小松山城)に関わる堀切や井戸、番所などが築かれた跡が残る。 小松山城(備中松山城 小松山山頂 標高約430メートル) 小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭。一般に、「備中松山城」と呼ばれるのは、 この小松山城を指し、天守の現存する山城として随一の高さを誇る。 城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存しており、昭和16年に国宝(昭和25年 文化財保護法の制定により重要文化財)指定を受けている。 平成6年度から、重要文化財を中心に本丸が復元整備され、本丸南御門をはじめ 東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実に基づいて 復元されている。】 山道へ入る手前には、こんな貼り紙があった。 ええ~、大丈夫なの? と思ったけど、どうやらこれは平成22年の被害の事を言ってたらしい。 岡山を直撃した平成23年9月の台風12号では、二の丸東側の石垣が崩落したとの 発表があった。 とりあえず、今回は小松山までしか行かないので影響はないハズ・・・ ちなみに、この貼り紙の被害については平成24年3月に復旧し、 大松山まで行かれるようになったとのこと。 ちょっと小雨がパラついてきたけど、ここから山道だし 傘もささなくて大丈夫そうだな。 歩き始めるとすぐ、楽しい看板が目に入る。 左手に見える石段は、下へ続いてる。 うん、帰りはこれを降りてけばいいワケね 看板は、その先もちょいちょい出てくる。 ちょっと小姑っぽいのもあるけど、城主様がこう言ってるんだから、 ちゃんと守らないとね(笑)。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年04月21日 17時42分07秒
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