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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月07日
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カテゴリ:城(中国)
すいません、別の記事が入りまして。
ここから相続イベントを再開します。


前回の帰城交渉の経過や結末がどうなったのかはわからない。
が、繁平は元服後に出家した。

出家の経緯もわからない。
当主に返り咲くことまでは考えてなかったかもしれないけど、
普通に考えれば繁平の元服は隆景に家督を譲ってから7年後ぐらい。

その頃には、恐らく毛利家による防長計略も完了して、
隆景の沼田家当主としての立場は揺るぎないものになっていただろう。
帰城の望みが完全に絶たれたことで、
繁平はあらたな人生を踏み出そうとしたのかもしれない。


ところで、繁平が出家後に入ったという教真寺、これについては全くわからない。
ここにも疑問がある。

「三原編」でも少し書いたけど、教真寺の資料はないものの、
高山城下には似たような名前の寺が2つある。

ひとつは、巨真寺。
もうひとつが、匡真寺。

この2つの寺はいずれも、過去のシリーズで紹介してます。
私が思うに、「教真寺」はこのどちらかの寺を指すんじゃないかな~。



ひとつ目の巨真寺、これは沼田家の菩提寺で、現在は「米山寺」と名前を変えている。

最後の当主を除く沼田家歴代当主の墓があり、
また「三原編(21)」以降で紹介した大善寺、
あれもかつては巨真寺の塔頭のひとつだったという話もあり、
「三原編(2)」でも紹介したけど、巨真寺は当時はかなり大きな寺院だった。

歴史も古く、沼田本家の菩提寺だから、前当主が入るのに格としてはふさわしい。
小早川一族からも、過去に何人も巨真寺に入ってるし。


しかし、少々腑に落ちない点もある。
「三原編(2)」で引用した米山寺のしおりを再度掲載しますと、

 【東廬山米山寺は寺伝によると、平安時代の仁平3年(1153)に誓願禅師によって
  天台宗寺院として建立され、巨真山寺と称したが、のちに巨真山をコマヤマと読み、
  これがなまってコメヤマとなり、さらに米山の字をあて、室町時代には、ベイサンジと
  呼ぶようになった。また巨真寺とも称した。】


室町って一口に言っても、年代に相当の幅があるからね~。
それに、昔って今ほど漢字の使い分けは厳密じゃないし。
「三原」と「柞原」の表記が明治まで混在していたように、
「米山寺」と「巨真寺」がある程度の期間、並行して使われていた可能性は充分にある。

なので、繁平の出家当時にはすでに巨真寺は米山寺に商号変更しているハズであり、
ゆえに繁平が入ったのは米山寺ではない、という証拠にはならない。
ものによっては、隆景が米山寺に改めさせたという記述もあるし。


ただ、小早川一族から米山寺に入った人間は多くても、
ほとんどは次男とか当主の弟たち・・・
小早川家の系図はあんまり詳しいことは書いてないんだけど、
少なくとも繁平以前の当主が隠居して寺に入ったという例は聞いたことがないから、
米山寺に入った当主経験者はいないはず。

もし繁平が米山寺に入ったのだとしたら、出家の経緯はどうであれ
前当主が自分とこの寺に入るなんて名誉なことなんだから、
ちゃんとそういう風に書いておくんじゃないかと思うんだよね。



では、もう一方の匡真寺はどうか?

これがまた難解でねえ~・・・
巨真寺(米山寺)よりは、匡真寺の方が可能性が高いと私は思ってる。

匡真寺は、こちらも商号変更して、現在では「宗光寺」として三原にある。

「宗光寺(26)」の記事もあわせて読み返して頂きたいのですが、
宗光寺がクサイと思うのは、何と言っても繁平の菩提所、
一株院(いっちゅういん)が宗光寺にあること。

繁平の法名は、「一株院文室元緒」なんですよ。

ただ、宗光寺は天正5年(1577年)に隆景が実の両親を弔うために
創建したものと言われている。
繁平の没年は天正2年とされているから、素直に考えると年代が合わない。


が・・・
実は匡真寺は隆景の創建じゃなく、元々あった寺をリニューアルオープンさせた
ものだったとしたら?


仮にも前当主が入るくらいの寺なら、それなりの格はあったはずだと思うんだよね。
それに、そもそも教真寺はどこにあったんだ?

現在とは全く感覚の違う当時のことだから、
正統の前当主なんてものはこの場合、火種を抱えてるようなものでもある。

この辺については、あとでそれなりにまとめるつもりではいるけど、
ぶっちゃけ、よく繁平は殺されなかったよな~と思う。
実際、繁平と同じような経過をたどって悲劇の結末を迎えた同時代人もいた。

が、繁平は殺されなかった。
しかし、騒動のタネになりかねない存在ではあるから、
可能性としては毛利領内で毛利家の監視下に置かれたという事もなくはない。
でも、それはなかっただろうと私は思う。

繁平はおそらく小早川領内の高山城下、もしくはそれに近い場所に
いたんじゃなかろうか。


もし教真寺が誰か歴代当主あたりによって創建されたものだとしたら、
法名に「教真寺殿」とかって付いていてもよさそうなもんだけど、
そういう法名を持つ惣領家当主はいない。

たいがい法名って、自分が開基になったお寺とか、あるいは菩提寺の寺院名が
そのまま付くんだよね。

過去のシリーズで紹介した寺でいえば、佛通寺を創建した春平の法名は
「佛通寺天心宗順」だし、成就寺を菩提寺とする正平は「成就寺天秀祖祐」。
同じような例は他にもある。

中には「ナントカ寺」ではなく「ナントカ院」って人もいるから、
創建した寺じゃなく塔頭を菩提所とした人もいたかもしれない。


んで、繁平。
一株院は、はっきりとはわからないけど宗光寺・・・いえ、匡真寺の
塔頭だったんじゃないかと思われる。

仮に「教真寺」が正しい記述だとしても、誰が創建したものかはわからないけど、
たぶんそれなりの格はあるお寺だった。
そこの塔頭である一株院に繁平は入ったんじゃなかろうか。


隆景が匡真寺を造った年には、すでに繁平は亡くなっていた。
帰城交渉以降、繁平が表舞台に出てくることはないから、
その後隆景と会ったりとか直接のやり取りがあったのかまではわからないけど、
前当主で義理の兄でもある繁平が生きてたら、
さすがにその寺を自分の両親のための寺にリニューアルすることは
はばかられたかもしれない。

でも、匡真寺創建の天正5年には繁平はこの世の人でなかった。

前当主が入る程度の格のある寺なら、尊敬してやまないビッグダディ(元就)を
祀る寺とするのに、不足はない。

そして教真寺は丸ごと匡真寺に商号変更、
あるいは一株院はそのまま匡真寺の塔頭として組み込まれた。
もしくは、元々繁平がいたのは教真寺で、商号変更した際に
繁平の分だけ一株院として分離した可能性も考えられるけど、
匡真寺の創建より繁平の没年が先であることを考えると、
ちょっとそれはないのかな~って気はする。

で、一株院とともに三原に移転した匡真寺は、
江戸期に入って宗光寺にまたまた商号変更して、
一株院を塔頭としたままその後を過ごした・・・

そんな感じなのかなあ~。


あるいは、米山寺の塔頭であった大善寺が独立して三原に移転している事から考えると、
一株院は元は米山寺(巨真寺)の塔頭で、
本寺である米山寺から離れて三原に移転したという可能性もある。

だけど、それなら何でわざわざ匡真寺の下に入るかという疑問が残る。

ひとまず言えることは、繁平は「一株院」にいて、
その一株院は三原では宗光寺(当時は匡真寺)内にあったということ。
この点は動かない。


もんもんとした考えをそのまま文章にしてるので、
読みにくくて非常に申し訳ないとは思っていますが、
詰まるところやっぱり私は教真寺=匡真寺なんだと思う。

教真寺は少なくとも現存してないんだし、実在していた寺にしては
史料がなさすぎる。

教真寺が実在していなかったとまでは言わないけど、
それなら何で教真寺が残っていないのか・・・
どこかの寺に吸収されたか、廃絶したか。

竹原家の菩提寺・法常寺の住持記を見ると、確かに長い歴史の中には
衰退した寺もあったようだけど、「三原編」で私が回った寺のほとんどは、
もとは高山城下にあったもの。

三原には、今でも古い寺が結構残ってるんだよね。
しかも、隆景は寺社の保護も積極的に行った。
そんな中で、教真寺をみすみす廃絶させる訳がないと思うのだ。

福島氏時代に吹き荒れた寺社の社領の没収で没落した可能性もなくはないけど、
一株院は三原の匡真寺の境内に確かにあった。

こうしたことから考えると、教真寺、あるいは一株院は
匡真寺に吸収されたって考えるのが一番無理がないかなって思うんだけど・・・

ただね、それなら繁平の紹介文には「出家して匡真寺の前身・教真寺に入った」とか
書かれてもよさそうなもんだけどね。

あ~、わからないわからない雫
あの世ででもいいから、関係者様に会うことができたら、
繁平関連のことは是非直撃インタビューをしたいナゾのひとつだよな。


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最終更新日  2013年03月08日 20時52分54秒
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