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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月27日
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カテゴリ:城(中国)
白山城<広島県東広島市高屋町白市>
(住所をクリックするとmapfan webにリンクします)


※「東西条バトル編(23)」の続きです。


最初にお断りしておきますが、今回は白山城には登っていません。
ので、簡単な紹介のみになります。


    
      東西条・白市・西福寺へ


旧木原家住宅の先は、長い下り坂。

事前の調べでは白山城に登った人は少ないし、
その方達も整備されてなくてヤブが多くて大変だったと口をそろえて
言っておられた。

私はもう頭崎城で充分堪能したし、無理してまで登る気はなかったので、
訪城の準備だけは簡単にしておいたものの、白山城は予定には入れていなかった。

が、城山の山麓には見たいところがいくつかあったので、
ここから白山城のある城山を目指す。  
地図によると、この先の道を曲がっていった先に山麓へ行かれる道があるようだったので、
左へ入る↓。


      東西条・白市・白山城
 



当たり前の話だけど、土宮神社から見た時より城山が近い。

城山の標高は314m、比高は70mとか130mとかものによってまちまち。
たぶん、130mもないと思うんだけど・・・

上のmapfanにリンクしてもらえばわかると思うけど、
城山は低丘陵の東の出っ張った端に築かれている。
写真ではわかりにくいけど、奥にはずっと丘陵が続いてるって訳だな。

丘陵の続く北東から南以外の方面・・・北・西・南西は見通しがいいので、
丘城程度の小山でも、下から見ると結構存在感がある。

白山城はよく「領地のほぼ中央に位置し、四方を眺望できる」と書かれるんだけど、
地形図を見てると東および南東は丘陵地帯だからそれは違うんじゃないの?
って思う。
ただ、自分で白山城に登った訳じゃないから実際のところはわからないけど。


この道を入ったすぐ先に、白山城の案内板があった。



      東西条・白市・白山城4-2




 【白山城は、平賀弘保が戦国時代の文亀3(1503)年に築いた城で、
  それまで本城としていた御薗宇城より本拠を移しました。この地は、交通の便が良い
  白市の町を眼下に見下ろせるほか、四方を眺望でき、自然の地形を利用して
  防御に適した城です。

  最高所の郭は、大きく3段に分かれており、その周囲に帯郭がめぐっています。
  この郭群から南西に伸びる尾根筋上や南に伸びる尾根筋には大小の郭群が
  広がっています。
  正面の大手筋は、南西に伸びる尾根筋上の郭群から西側の光政寺にかけてと考えられ、
  途中にも小規模な郭が配置されています。】
  (現地解説板より)


へえ、こんなとこにちゃんとした解説があるなんて・・・
しかも、立派な縄張図まで。
私がまず目指してたのは、解説の中にある光政寺。
ここに案内板があるってことは、やっぱこの先の道でいい訳だな。

と思って歩き出したものの、この先の道はチョ~細くて、
ものすごくわかりにくい。
結局、ウロウロ歩き回ったものの道がわからず、
もう1本の道からチャレンジすることにした。



途中にあるのが、西福寺。


      東西条・白市・西福寺1


      東西条・白市・西福寺12



寺の内部についてはこの後の旅日記の方で紹介しますが、
この造りね・・・

西福寺は天正12年(1585)に現在地に移転してきたらしいんだけど、
白山城の北東にちょこんと出た立地でこの造りとくれば、

「これは出丸か?」

って思うのが自然でしょ?

天正12年なら砦を寺としてカモフラージュする必要は全くないけど、
あるいはその頃には本城を頭崎城に移してたのかもしれないし。
この地形なら、寺が移転してくる前にはなんらかの防御施設があったとしても
おかしくないよな~と思った。
どこにもそんな事、書いてないけどね。

この付近には、武者畠・夢屋敷・鉄砲屋・京阿弥・右京殿という地名が
残っているんだそうな。


で、この立派な石垣に見とれながらその先の道を右に曲がる↓。


      東西条・白市・御土居へ



この先も、大体の場所しかわからないんだけど、大丈夫かな~雫

次に目指すのは、「御土居」。
不安になりながらも、用意しておいた地図とにらめっこしながら進んでいくと、
この辺じゃないかと目される場所はこんなだった↓。


      東西条・白市・御土居へ3



う~ん・・・でも、何の案内板も道に出てないしな・・・
しばらく道なりにず~っと進んでみたけど、どうにも違う感じなので
途中で引き返してきた。

またこの写真の場所まで戻ってきて、やっぱりここなんじゃないかと思ったけど、
上がれそうな道はどうも人様の家の敷地のように見える。
ので、仕方なくそのまま戻ってきたけど、
帰ってから調べ直してみたらやっぱりここでアタリだったらしい。


「御土居」といえば、京の秀吉の大規模なものなんかが有名だけど、
ここ白市の御土居には、平賀氏の居館が築かれていたという。
御土居を町の中心とし、白山城を守りの要としたんだそうな。



古い時代には、市場と武士団の本拠地は離れた場所にあった。

そもそも市場ってのは交通に便利な場所に開かれたものだし、
一方で国人衆の城は防御の点から山間部の峻嶮な地形を生かした場所に
築かれたものだという地理的に相入れない問題もあったのでね。

しかし、経済の重要性についてはもちろん認識されていたので、
領主は市場に代官などを派遣してその経営にあたらせていた。

その他に、市場を城下に近づけなかったのは風紀上の問題などもあったらしい。

小早川宣平も、

「市に住むんじゃねえ!!」

って通達を出してるしね(笑)。


が、時代が下るとより経済の重要性が高まり、
白市のように城下がそのまんま市場になるという現象が起こるようになる。
安芸では他に、毛利氏や吉川氏でも同じように城下へ市場が引き寄せられている。

平賀氏の場合は、周囲の環境が厳しくなってきたことを受けて
弘保がさらに白山城の北へ頭崎城を築くという変遷をたどる。



今は御土居の辺りは静かな住宅地。
旧木原家住宅や西福寺のある観光のメインストリートからは外れた場所にあるので、
何も知らなければここが白市の中心だったなんてことは想像もつかない。


宅地造成される前には、この辺りで発掘調査があったらしい。
その頃に現場を訪れた方の記事を見たんだけど、
今はもう遺構は消滅しちゃったのかな・・・
あるいは写真の右側の部分には何も建物はないから、とりあえず主要な部分だけは
保存されてるのかな?
自分の目でこの上を見た訳ではないので、何とも言えませんが。


御土居のあたりから見た城山↓。


      東西条・白市・御土居へ4・白山城



山の形そのものは大きく変わってはいないはずだから、
ここから弘保や隆宗が同じような城山の景色を眺めたかもしれない。

ちなみに、「日本城郭大系13」によると、御土居付近には
明屋敷・御屋敷・的場・土居ノ内なんて地名も残っているらしい。
地図にはそんな地名は書かれてないけどね。「字」でしょうね。



再び西福寺の方まで戻って、道を探す。
かなり歩き回った後で光政寺をようやく見つけ、山麓を次のお目当てに向けて歩く。


     東西条・白市・うぐいす塚へ-2


六地蔵の先に、「うぐいす塚」を示す案内板がある↑。
ここを少し上がっていく。


     東西条・白市・うぐいす塚へ2



よく覚えてないんだけど、上の写真はうぐいす塚とは
反対の方向の道だったかもしれない。
その記憶があってたとしたら、ある程度までは城山へ登れるのかもしれないな。

それで、こちらがうぐいす塚↓。


     東西条・白市・うぐいす塚3


 【松尾芭蕉の門人野波(のば)の高弟で広島に「風律」という俳人がいた。13回忌に
  あたる寛政5年(1793)白市の弟子たちが、光政寺南側の山裾に建立した
  追慕の立碑である。彼の句に『鶯や となりなれとも こ地の枝』とあり
  本句から鶯塚と名がついた。】
  (現地解説板より)

別にこれを見に来た訳ではなく、その後ろにあるこっちを見に来たのだ↓。


     東西条・白市・うぐいす塚5


これね、「白山城主の妾の墓」といわれてるものなんだそうです。

白山城の廃城年はわかってないけど、秀吉による山城整理令もあったし、
頭崎城の戦い以降は本拠を頭崎城に移したともいうので、
まあ遅くとも関ヶ原頃までには城の役目を終えたと思われる。

そうなると、「白山城主」はかなり限定されてくると思うんだよね。
候補としては、弘保・隆宗・広相・元相あたり(隆保は白山城には入っていない)
だと思うけど、頭崎城の戦い以後に本拠をそちらに移したんであれば、
もう弘保で本決まりってことになる。

弘保の、妾・・・?側室じゃなく?

うぐいす塚の入口から見るとこんな感じ↓。


      東西条・白市・うぐいす塚6



小さいけど、立派な削平地だわ、これ・・・
なら、城の一部だよな。
城の一部に、妾の墓なんか置くか~?
居館だって山麓にあるんだし、こんな場所に埋葬なんかするかな・・・

って現実的なツッコミを入れるのは、たぶん私くらいでしょう泣き笑い

てか、妾の墓でなかったとしても、人の墓のどまん前に
こんな石碑を建てちゃうセンスって、俳人としてどうなワケ・・・ショック


※「東西条バトル編(24)」へ続きます。

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最終更新日  2013年04月27日 23時34分33秒
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