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2013年06月09日
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カテゴリ:城(東北・関東)
道灌山城東京都荒川区西日暮里
(住所をクリックするとMapfan webにリンクします)


※「プチ日暮里編(6)」の続きです。


JR西日暮里(にしにっぽり)駅を降りて駅の西側に出ると、
小高い丘状の地形になっていて、この辺りを道灌山という。

上記のリンク先を見ていただくとわかるように、
西日暮里駅を通って西にある不忍(しのばず)通りへぶつかるまでの大通りは
「道灌山通り」だし、周辺には「道灌山」の名を冠したマンションだとかが
いくつもある。

この道灌山に、太田道灌が砦を築いたといわれている。


最高所は西日暮里駅すぐ南にある諏方(すわ)神社。
諏方神社からその北にある西日暮里公園あたりにかけてが、
道灌山城のあった場所と推定されているようです。

西日暮里を電車で通ることのある方は、東京駅から池袋方面に向かってった場合、
左側の駅の向かいに高台がありますね。
あれがそうです。

諏方神社の境内の端っこから駅を写すと、こうなります↓。


      日暮里・諏方神社49



同じく諏方神社境内から、東側を見たところ↓。


      日暮里・諏方神社42



下を通るのは、JR山手線。

今はビルがあるから見晴らしいいってほどでもないけど、
昔はもちろん高層建築なんかはないから、
この程度の丘でも結構見通しはきいたんじゃないかと思います。

この斜面も当時のままではないかもしれないけど、
現在でも上から見下ろすと、高台程度の比高でありながら、結構斜面は急。


それと、関東南部、特に江戸湾に流れ込む河川沿いの地域は、
江戸時代に大規模な流水路の付け替え工事が行われたので、
江戸以前の中世は今とはかなり地形が違っていた。

現在線路になってるあたりは、かつては音無川という川が流れていたようで、
道灌山にある寺の中には「船繋ぎの松」があったという寺もある。
だから、水の利も良かった訳だよね。

ので、道灌さんがここに砦・・・というか出城を築いたというのも、
うなずけます。


しかし、実は道灌山城は太田道灌の城ではなかったともいわれます。

もう1つの説は、江戸の土豪・関道閑の居館があったというもの。
関氏は古くからの江戸の地のジモティーで、
武蔵の豪族・平重継が江戸に移ってきた際には重継(あるいは子の重長)に
娘を嫁がせたという。

重長はのちに頼朝に仕えて鎌倉の御家人となり、
江戸氏繁栄の基礎を築いたとされる人物なので、
そこに娘を嫁にやるくらいだから、関氏も結構な勢力を持っていたものと思われる。


どちらも「どうかん」。
太田道灌さんの人気は高いから、名前がすり替わって伝わっちゃったのか、
あるいは道閑さんの居館跡に道灌さんが出城を築いたために
地名が塗り変えられてしまったのかはわからない。

でも、関道閑さんの居館もこの地にあったんだとしたら、
名が埋もれちゃって可哀想だよね~。


え~、道灌山城に関してはこれ以上のことはわからないので、
本日の記事は以上で終了ですぱー

・・・が、ここでやめるとクレームがつきそうなので、
どうしようか考えた結果、ちょいと歴バナを書くことにしました。

道灌さんからはちょっと離れちゃうけど、無関係って訳でもないし、
何事も基礎が大事ですのでね。
で、ここからは関東公方について少々。



室町から戦国にかけて、ナントカ公方ってのは数種類ありますが、
ここでは関東について限定します。
西国にもいくつかあるけど、大した存在感ないしね(笑)。

それに比べると、関東の公方は関東のみならず、
遠く離れた場所にまでかなりの影響を及ぼした方達です。
ま、影響っつってもロクなもんじゃないんだけど泣き笑い

まずは、こちらの足利家の図をご覧ください↓。


  関東公方相関図



カッコ内は職を継いだ順番です。
色分けしてますので、色ごとに見てね。
ピンクはもちろん、足利将軍家ね。

古河公方・足利将軍家ともにこの先もまだ続きますが、ひとまずここまで。
必要最低限の関係者に絞ってますので、ご了承ください。
今回使用するのは、この系図の一部です。


ま~、関東公方に馴染みのない方はこの図だけで

「なんじゃ、こりゃ!?」

って思うんじゃないかと思いますが、系図を作る作業ってのも
結構時間がかかるものなので、作業の途中で

「あ~、ウザ・・・
すっぱり説明カットしちゃおうかな~」


とも思いましたが、中身はともかく影響力(だけ)はあった方達なので、
歴バナの途中でいきなり「ナントカ公方が・・・」とだけ書いたところで、
この方達がどういう存在なのかを知らなければ、
数々の戦いや事件を理解したことにはならないのでね。

それに、すでに行ったところやこれから行くところの記事を書くにあたっても、
この方達は色んな場面で絡んでくるので、ここは大事なところなんです。




そもそも鎌倉公方とは、足利尊氏が関東十国の押さえとして
2代将軍義詮(よしあきら)の弟・基氏を鎌倉に派遣したことに始まる。

鎌倉公方の役職は鎌倉府の長官であり、当初は「関東管領」といった。
関東管領を補佐する上杉氏は、「執事」。
太田氏はその上杉氏の家宰だった。

それが、いつの頃からか「関東管領」は「鎌倉公方」となり、
「執事」が「関東管領」を自称するようになった。

勝手に呼称をグレードアップさせちゃうあたり、
もうこれだけでどんな方達なのかちらりと想像つくんじゃないかと思いますが・・・

そう、関東の自称「公方」は京の将軍家に対してライバル心ギラギラで、
鎌倉府設置の目的とは裏腹に困った行動を繰り返します。


まず2代目・氏満。

3代将軍・義満を補佐していた管領・細川頼之が失脚する原因となった
康暦の変では、反頼之派の斯波義将と組んで出兵しようとする。
いちおう途中まで出兵はしたんだけど、家中のゴタゴタがあったもんであえなく失敗。


3代目・満兼。

この人は大内義弘の応永の乱で義弘と組んで義満に対抗した。
この時も武蔵の府中(東京都府中市)まで来たところで
関東管領の上杉憲定に止められ、一旦ストップ。

その後足利(栃木県足利市)まで軍を進めたものの、
義弘が敗死したことにより鎌倉へ戻った。


・・・とまあ、幕府に対抗し続けた家系に生まれ育った
4代目・持氏はというと・・・


ここで話は一旦将軍家の後継者問題に移ります。

5代将軍・義量(よしかず)は16際の時、
父の4代将軍・義持から将軍職を譲られた。
が、応永32年(1425)2月27日、18歳にして早世。

義量には嗣子がなく、他に将軍職を継げる兄弟もいなかったため、
将軍空位のまま父の義持が将軍代行を務める。

義量が亡くなった年の11月30日、鎌倉公方の持氏は

「チャ~ンス!!」

とばかりに、自分が義持の猶子になって
上洛して奉公したい旨を告げる使者を京へ送った。
が、この使者は義持に会うことすらできず追い返されたという。


しかし、チャンスは3年後に再びやってきた。

応永35年(1428年)1月7日、
義持は風呂場でお尻のできものを掻き破ったため感染症になり、
17日には危篤になった。

いい大人(42)がどんだけ掻いたんだとツッコミ入れたくなるが、
それはさておき、継嗣を定めてないので重臣たちはあわてた。

そこで、義持の護持僧を務めていた醍醐寺の満済に
後継者についての意向を尋ねさせた。義持の回答は

「重臣たちのよきにはからえ~」

だったが、管領・畠山満家以下重臣は

「ちょ・・・マジ困るから~!
満済ちゃん、もっかい聞いてきてよ。お願いっっ!!」


と再び満済を送りだした。
その際の提案として、

 ・義持の兄弟4人の仲から後継者を指名してください。
 ・八幡様の神前で、兄弟の名字を書いたクジを引いて
  神意によって決めるのはどうでしょう?


の2つの案を出した。
そこでようやく

「然らば籤たるべし」

との回答をゲットした。


義持もまだ若かったとはいえ、なぜに後継者を定めておかなかったのか・・・

「次を決めておいたって、有力大名たちに支持されなければ
意味ないじゃん」


と言ったとされ、ここから将軍権威の弱さを指摘する意見もある。
が、満斉の記した日記によると義量の死後に石清水八幡宮に参詣したところ、
男子が生まれる夢を見たのでそれに賭けていると義持が語ったとある。


ともあれ、幕府管領・畠山満家は石清水八幡宮(他の八幡様との説もある)に詣で、
神前でクジを引いて戻った。

翌18日、義持が死去すると重臣たちの前でクジを開封した。
書かれていたのは「青蓮院殿」。
義持の同母弟で、天台座主・比叡山青蓮院門跡の義円だった。

他の3人は腹違いだがいずれも義持の弟で、義円を含めみな出家していた。
鎌倉公方・持氏の名前はハナから書かれていなかった。
ま、当然っちゃ当然なんだけど・・・泣き笑い


19日には早速、義円をお迎えに行った。
義円は何度か断ったものの、最終的に承諾し、その日のうちに青蓮院を出た。

が、元服前に出家していたため、世俗では無位無官だし、
しかも法体(つまりハゲ)の者が将軍職を継いだ先例もないため、
朝廷の意向でまずは義円の髪が伸びて元服を行えるようになってから
昇進・任官させることになった。

3月12日、還俗してまずは従五位下からスタート(2ヶ月でそんなに髪伸びるか?)。
翌月の4月14日には従四位に昇進したものの、まだ将軍宣下は得られなかった。
ので、鎌倉公方・持氏が将軍になるんじゃないかとの
ウワサが京の町に飛び交ったという。

根も葉もないウワサだったとしても、鎌倉公方がどういう風に見られていたか、
ここから窺われるというもの。

翌年の3月15日、ようやく征夷大将軍に就任。
当初は「義宣」と名乗っていたのを「義教」に改名し、
ここにくじ引き将軍・足利義教が誕生した。

くじ引きって言っても、当時と今の感覚は全然違うからね。
テキトーに選んだって訳ではないので、その辺誤解しないでね。
ま、義教のくじ引きにあたってイカサマがなかったかまではわかりませんが。


将軍職を狙っていた鎌倉公方・持氏は、
この結果に地団太踏んで悔しがったことだろう。
そして、その悔しさが義教への憎悪に変わっていくのだ・・・

※「プチ日暮里編(7)」へと続きます。


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最終更新日  2017年10月29日 00時04分36秒
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