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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月11日
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カテゴリ:城(中国)
え~、天文13年(1544)のビッグイベントにかなり記事を費やしましたが(笑)、
『大内氏実録』には同じ年の3月上旬、「卜部兼右山口に下向す」とある。

卜部兼右は吉田兼右(かねみぎ)のことで、『兼見卿記』で戦国ファンにお馴染みの
吉田兼見のお父さんです。

大内義隆といえば、月山富田城攻めに失敗して引きこもり、
文芸や遊享に走って身を滅ぼした・・・みたいなイメージが強いかもしれないけど、
別にこの時が吉田家とのお付き合いの始まりだった訳じゃない。

戦国きっての文化人でもあり、華麗なる大内文化の申し子ともいえる
才能を持ち合わせていた義隆の関心は、和歌や漢詩文のみならず
能楽・儒学・仏学・神道・有職(ゆうそく)学など幅広い分野に及んだ。

このうち、吉田家からはもちろん神道を学んだ訳だけど、
すでに天文3年(1534)、吉田家を通じて神道伝授の第1ステップとなる書を
山科言継に求めている。

その後も順調にお勉強は進むが、驚いたことに天文11年(1542)3月、
月山富田城攻めの遠征途中の陣中でも、吉田兼右から20数種もの
神道関係の書物をもらってるんだそうな。

ところが、せっかくもらったそれらのうちの幾つかを
敗走して山口に帰還するまでの間に紛失しちゃったらしく(そりゃそうだろ)、
帰った翌月の天文12年6月5日にはあらためて伝授してもらったという。

いやいや、再伝授の頃の大内家内では、想定される尼子方の来襲に備えて
そりゃもう真剣な討議が連日重ねられてたと思うけどね。
ちゃんと軍議に出てたか?義隆。

とりあえず、晴持を失った悲しみで泣き暮らしていた訳でもないらしい。
・・・て、海を越えて朝鮮にまでその勉強熱心なウワサが届いたという、
いかにも義隆らしいエピソードでした。



翌天文14年(1545)は神辺城に関連するような目ぼしい記述はない・・・
が、『萩藩閥閲録』を見ていた時、平賀隆宗が家臣と思われる人に
所領をあてがうという書状を見つけた。(平賀家の略図はこちら

実のところ、隆宗についてどこまでわかっているんだろうか?
とりあえず、ネットなどでは詳しいことはわからないが、
一般的に頭崎城が落ちた後に家督を相続したといわれる。

まあ、少なくとも書状の日付の天文14年12月23日時点では
平賀家当主としてあった訳だな。



神辺城とは直接の関係はないけど、
この年は毛利家にとって重大な出来事があった。

毛利元就の愛妻・妙玖(みょうきゅう。実名は不明)が
若くして亡くなったのだ。

妙玖さんは元就より2つ下の明応8年(1499)生まれとのことなので、
単純計算で享年46歳。
2人が結婚した年はわかっていないが、30年近く連れ添って、
政略結婚であったにも関わらず元就が彼女の死後も何度も書状で
彼女のことを書いていることから、夫婦仲は良かったとされる。


  永正結婚ラッシュ(続)-2


妙玖さんは、吉川家の出身。

思いっきり手ヌキですが、妙玖の左隣の元経と
その左の元就の姉妹から生まれた子・興経がこの当時の吉川家当主。

元就から興経を見た場合、妻の甥なので自分にとっては義理の甥。
さらに自分の姉妹の子なので、そちらの線から攻めると実の甥。

頭崎城~吉田郡山城の一連の大バトルを経て一旦は大内方へ入った吉川興経は、
月山富田城攻めを契機に再び尼子方へ転じた。

大内軍および傘下の国人衆も帰国して、尼子晴久の来襲に備えて
安芸で慌ただしく厳戒態勢が敷かれる中、
義隆は天文12年8月18日付けで裏切り者の吉川家の所領を
元就に任せるという内容の書状を出している。

この時は、まだ妙玖が生きていたためか元就は

「ラッキー!!」

とホイホイ吉川家の領地を戴いちゃうことはせず、
義隆に赦免を乞い、吉川家の窮地を救った。

この時、元就に下心があったとは私は見ない。
打算が皆無だったとも言い切れないけど。

が、元就の尽力で周囲が大内方に次第に帰参していく中で
孤立しつつあった吉川家サイドとしては、元就は恩人。
結果として、この後の元春の吉川相続イベントへの下地がひとつ増えた。

そして、妙玖の死を境に、その土壌に1つの大きな花を咲かせる動きが
見られるようになる・・・・・


備後の城から安芸を見るという、おかしな作業はまだ続きますうっしっし



翌、天文15年(1546)も
神辺城関連では目立った動きは見られないなあ。

が、毛利家ではこの年もビッグイベントがありました。
6月頃、元就が隠居し長男の隆元に家督を譲渡。
実年齢では元就49歳だけど、数えでは50歳ですかね。

「キリのいいところでの隠居、
おめでとうございます。
今後はごゆるりと、セカンドライフをお楽しみくだされ緑ハート


・・・であったのなら、毛利元就はもっとマイナーな
戦国武将として終わったでしょう。
元就のセカンドライフは、ゆるりとしたものではなく
ギラギラしたものとなった(笑)。


同じ年、吉川家では家臣のクーデターにより当主・興経が隠居に追い込まれ、
元就の次男・元春を養子にという交渉が始まる。
交渉は翌年まで持ち越され、天文16年(1547)閏7月に
元春が吉川家の家督を継ぐことが決定した。
・・・が、元春ちゃんはまだしばらく入城はしない。



え~、月山富田城での敗退後の天文12年から15年までを、
(ほとんど安芸の流れをメインに)見てきましたが、
天文16年からはやにわに慌ただしくなります。
そして、神辺城もやっと出てきます泣き笑い

神辺城をテーマにしながらこんな記事を書くのは
たぶん私ぐらいしかいないでしょうが(←自信アリ)、
神辺城の流れを整理しているうちに、
ああ、これとこれは同時進行だったのか~って思うことが多かったので、
色々書いてきた訳です。




さて、神辺城でもっとも有名だろうと思われるのが、
「神辺合戦」。

一般の歴史ファンの書いた神辺城の訪城記では、
天文16年からの動きをかいつまんで書いてる方が多いように思われますが、
実際には天文12年、山名理興が大内家に反旗を翻してから
ずっと続けられていたようです。

なんと足かけ7年。

頭崎城の戦いといい、尼子方に転じた武将はツワモノ揃いだなあ(笑)。
もちろん、尼子晴久のバックアップがあってのことでしょうけど。


過去のシリーズなどで『新裁軍記』を参考にした文を書いてますが、
これは巷で流行りの軍記物などの記述の誤りなどを逐一チェックして、
ツッコミをえんえんと綴った大変な本です。

内容は永正14年(1517)~永禄6年(1563)までの
毛利家の編年体の歴史書で、対象の期間はそう長くないものの、
かなり細かいテーマを取り上げてツッコミを入れている。

元文3年(1738)に着手されたというけど、
その時代によくまあこれだけのものを書いたな~と
ウンウン言いながら読んでます。

たとえば神辺城のことにしても、ある程度ちゃんとした本などでも
つるっと語られているものの、これってどこから持ってきた話?って
思ってしまうものが多い。

で、手持ちの本をあれこれ読みちらかしているうち、
「あっ、これかあ~!」って出典を見つけることもあるんだけど、
案外『陰徳太平記』などの軍記物の記述がそのまま通説になってることが多いと
最近知った。

ところが、『陰徳太平記』には「これはフィクションだよな」ってエピソードが
結構挿入されてるかと思えば、一方で『新裁軍記』を読むと

「この話さ~、
どの軍記物でも取り上げてないんだけどさ~」


って書き出しで始まる項目がいくつもある。

『毛利家文書』などの書状関係をはじめ、寺社系証文だの様々な史料と対比させて
書かれているものだけあって、『新裁軍記』の論考には納得できるものも多いし、
現代では広く知られているようなことが
当時はあまりパンピーに知られていなかったのか~ということが窺えて興味深い。


で、神辺合戦の7年という部分に戻りますが、『新裁軍記』によると、
神辺城攻めに7年かかったということは
軍記物にも『毛利家文書』にも書かれておらず、渡辺家の証文に見えるとある。

この証文というのは、神辺合戦からかなり年数が経った後に
小早川隆景によって書かれた書状のことで、
ここに「大内殿のもとで神辺に7年詰めた」という記述がある。

残念ながら隆景ちゃんは合戦の開始年月日までは書いてくれてない。
が、神辺城が天文18年に落城していることから、
『新裁軍記』では逆算して天文12年をスタートの年だとしている。

天文18年から7を引いたら天文11年にならないか?と思うものの、
まあ天文12年だと言ってるんだから、それ以上はつっこまないことにしよう(笑)。



ところで、山名理興が攻められたのはなぜだろう?

通説では、天文7年に山名氏の神辺城を落とした後に理興が
杉原姓から山名姓を名乗るようになったのは、
山名氏に代わって備後を統括するという強い決意の表れだとか、
妻が山名氏の出であったからだとか、色々言われる。

ま、私は「神辺城(1)」~(2)で田口氏の説を紹介したように、
理興は最初から山名姓だった説を支持しているので、
通説とは根底から解釈が相違する立場になります。

備後って、横幅がスリムなんだよね。
備後の中でも東に位置する神辺城は、西から見た場合、
備中に近い奥まった場所にある。

「神辺城(3)」~(4)で書いた天文12~13年の尼子方の攻撃は
ホントかな?って思う部分も若干あるものの、小早川領の東隣なども一旦は
尼子方に落とされたりしたらしいので、史料では詳しいことはわからないけど、
各所で大内VS.尼子の攻防は確かにあったのだろう。

しかし、天文12年に神辺城攻めを開始したのであれば、
当然芸備国境から遠い場所にある神辺までのルートを確保できていたことになる。

てことは、結構早い段階で尼子勢力を駆逐、
あるいは帰参させることに成功していたってことか・・・

「神辺城(2)」に書いた天文9年の元就による神辺城攻めでは、
周辺の備後の城主と備中の城主も参戦したとある。
この話自体はちょっとマユツバだけど、理興が神辺城周辺エリアでの
親分格だった状況を窺わせる。

であれば、裏切り者への制裁というよりは、
やはり備南の再制覇を目指して大内方が大規模な攻勢に乗り出した、
と見ていいのかな。


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最終更新日  2013年09月21日 23時29分44秒
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