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戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年05月08日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
門から先へ進むと、まずトイレがある↓。


      叡山3・飯室谷・安楽律院11

うむ、いつ人が来るかわからんからな・・・
ここは様子を見てから後で使うことにしよう。

このトイレのある場所は城でいうなら馬出みたいなもんで(笑)、
左と左前方に進む石段が2つある。
安楽律院全体の構造は全く把握してないので、とりあえずここは順当に
左の大きな石段を進む。
石段を上がりきる頃、前方に約1名おじさんがいるのが見えたが、
ちょうどわたくしと入れ違いになる形でおじさんは石段を下りていった。

上がりきったところに広がる光景は


      叡山3・飯室谷・安楽律院14


      叡山3・飯室谷・安楽律院15


      叡山3・飯室谷・安楽律院16

おおお、すっげえ!
礎石が綺麗に残って、建物配置がわかる!!

見ておわかりのように、すでに僧坊はなく廃寺です。
入ってすぐのところには簡単な解説があり、

 【安楽谷は横川飯室谷の別所である。恵心僧都なども隠棲したところであったが、江戸中期に
  妙立、霊空らがきびしい戒律主義を唱導し、その一門を安楽律とよびここに住した。
  律院はおしくも放火でほとんど失った。ここには比叡山を愛した藤原定家の碑、爪塚などが
  ある。】
  (現地解説板より)

という歴史を持つ寺ですが、せっかく戒についても過去に触れているので
もう少し安楽律院の歴史の話をば・・・



え~と、戒の話は「(122)」が最後ですかね。
その後最澄の変えた戒のシステムは鎌倉新仏教に至って独自の進化を遂げるんだけど、
それについてはこの後で触れるとして、ここは江戸期へジャンプします。

最澄が大乗戒壇の設立によって変えたのは、はるばる大陸から渡来僧を迎えて導入した
小乗戒による受戒ではなく、もっと戒の数の少ない菩薩戒(梵網戒)で
ヨシとしたものだった。
言ってみれば、正式な僧侶となるハードルを下げたようなもの。

長い叡山の歴史の中では、その菩薩戒ですら守られない時期もあり、
そういう状況に異を唱えた僧がいた。
真盛さんもその一人になると思うけど、その後にもそういう人が出た。

上の解説にある妙立(みょうりゅう)は江戸初期に美作に生まれた人で、
妙心寺派の花山寺で出家したというから禅僧としてスタートしたらしい。
「花山寺」は花山天皇が剃髪した元慶寺かと思ったけど、
隣接しているものの別の寺みたいです。
して泉涌寺などで勉強した後に天台教学にハマった。
が、妙立は菩薩戒のみならず具足戒も受け、中国の天台の律僧を模範としていたそうな。
具足戒壇なんてその頃もあちこちにあった訳でもないでしょうから、
東大寺にでも受けにいったのかね。
そして、戒の復興を叫ぶことになる。

安楽律院の戒律復興運動は、最澄の定めた12年の籠山制の復活もセットになっていた。
妙立の弟子の代の頃は浄土院に侍真がいない時だったらしく、
ただ最澄に仕える僧を置くんじゃなくて12年籠山僧をもって
侍真にあてることを定めた。
これが現在まで続いている。
「(106)」に出てきた復興運動は、この妙立の始めた運動を指します。


妙立は梶井宮・盛胤法親王の帰依なども受けたらしいが、
大乗戒一本で長くやってきたところに四分律(具足戒)の兼学ということを
盛んに訴え始めたもんだから、信者を惑わすなということで延宝6年(1678)に
叡山から追放されたらしい。

妙立は元禄3年(1690)に亡くなった。
元禄といえば~、「元禄赤穂事件」の起こった時期であり、将軍は5代・綱吉。
綱吉といえば~、その時期の三山管領宮は本ブログでもあちこちで顔を出している公弁法親王。
綱吉と公弁法親王の親密な関係は「上野第二編(23)」などの寛永寺シリーズで
少し紹介してますね。


妙立の死の3年後、公弁法親王は「大戒旧跡再興」という令旨を出し、
安楽院を四分律兼学の律院とした。
ここでの厳格な戒律は「安楽律」と呼ばれ、妙立の弟子の霊空が住僧となった。

輪王寺宮・公弁法親王の援護も受けた霊空は東叡山に浄名院、日光山に興雲院を開く。
つまり寛永寺と日光輪王寺に安楽律院の支院を置いたってことらしい。
これで三山に律院が整った。

霊空は妙立が叡山から一時追放された際にも師に従っていたそうで、
その頃には摂津などで天台経疏の講義を行ったり、また著述も多く
沢山の妙立の弟子たちが霊空の元に集まったという。
霊空の代には幕府から寺領の寄進も受けている。
晩年の霊空はここ安楽律院で妙立の始めた戒律復興運動のさらなる発展に尽力した。
そのうちのひとつが、先にも出てきた12年籠山と侍真制のコラボ。

元禄12年(1699)に霊空が「開山堂侍真条例」を定め12年籠山の復活を提唱すると
5人の志願者が現われ、同年中に死亡した1人をのぞいた4人が12年籠山に入った。

最澄はハードルを下げたけど、てんから具足戒を否定した訳でもない。
霊空が模範とした中国の天台律僧たちは大乗・小乗を兼学していたそうで、
安楽律院の改革はこれに多大な影響を受けたものと見られているらしいが、
最澄の思想に還った点も一部あるものの、違う点もある。

最澄は具足戒に替えて大乗戒にしようとしたのであり、
菩薩戒を受けたあとに具足戒を受けたら大乗・小乗兼行の寺に住することを
許すとしているものの、必ず両方を受けろと言ってる訳でもない。
あるいは最澄自身は両方受ける方が望ましいと思っていたのかもしれないけど、
ノーマルラインとしては菩薩戒で充分だとした。

長い歴史の中には妙立のように個人的に具足戒を受けた僧もいるのかもしれないけど、
そもそも大乗戒壇自体が最澄の死後にできたものなので、
わたくしが知っている分には最澄以前で兼学した者は最澄と義真しかいない。
この2人はそれぞれ日本と唐で具足戒を受けたあと、唐で道邃(どうずい)から菩薩戒を受けてるからね。

叡山に大乗戒壇ができる前は叡山の僧もみんな東大寺へ具足戒を受けに行ってたから、
最澄の直接の弟子、あるいは孫弟子あたりまでは兼学したと言えるかもしれない。
ま、最澄が具足戒を捨てちゃってるので、それにならって
弟子たちも捨てちゃって兼学したことにはならないのかもしれないけど。

それを、霊空は菩薩戒を受けて12年の籠山をこなしたら、
必ず安楽律院で四分律(具足戒)を受けるようにと明確に規定をした。
最澄以前に戻したというより、最澄以前以上に戒を守ろうぜとしたのが霊空。


霊空の後は妙立の弟子の玄門が引き継いだ。
この代では安楽律院に正殿ができて公弁法親王から「弘律場」の書が贈られたという。
きっと扁額だろうな。
能筆家の公弁法親王のお手になるものだから、さぞ立派だったことだろう。
玄門の最晩年には、輪王寺宮第5世・公遵法親王が12年籠山を終えた僧は
山上で教育にあたる僧をのぞいてすべて四分律を兼学するようにと命じている。
これが元文4年(1739)のこと。
妙立が目指したものは3代でほぼ完成を見たと言っていいんじゃなかろうか。

ところがその一方で、兼学に疑問を呈する者がいた。
それが横川の僧・円耳で、宗祖・最澄が廃したはずの四分律を兼学しろというのは
おかしいんじゃないかとした。
いかにも、ごもっとも。
ここでもっともとするのはもちろん兼学の是非ではなく、
最澄の遺志にかなっているかという意味です。
そして兼学派と論争が起こり、教団内でも意見が割れ始める。

宝暦2年(1752)、玄門が死去。
弟子がその後を継いだ。

一方、輪王寺宮も代替わりして第6世輪王寺宮・公啓法親王の代に入った
宝暦8年(1758)、宮は兼学を停止して安楽律院や末寺は兼学の寺から大乗の寺となった。
そして、兼学に反対していた円耳が安楽律院に入り、兼学派は山を下りた。
兼学派の中には幕府へ訴えた僧もいた。
察するに、円耳ら反対派が宮に強く訴えたんだろうな。

その数年後には幕府へ訴え出た安楽律派の僧たちが脱衣追放の処分を受けている。
この年、江戸では芝浦で1丈(約3m)という巨大マンボウが捕獲され
両国で見世物になったらしいが、そんな世間の賑わいとは裏腹に
安楽律派の僧たちは厳しい時期を過ごしていた。

公啓法親王の時には安楽律派にとっては大逆風が吹きまくりだったが、
明和9年(1772)に宮が40歳という若さで他界する。
その時点で公啓法親王の後継は決まっておらず、引退した第5世・公遵法親王が
第7世輪王寺宮に再任される。
公遵法親王は30歳という若さで公啓法親王に輪王寺宮を譲っていたので、
まだこの時は50歳だった。

公遵法親王の返り咲きは緊急のつなぎだったろうと思われ、
早々に次の輪王寺宮となるべき皇族を寛永寺に入らせたものの、
その皇子は江戸に下向した翌年に亡くなってしまう。
これにより、公遵法親王は再任してから8年輪王寺宮を務めた。

でっ、公遵法親王が返り咲いたあと、と言っても正確には次の輪王寺宮の代のようだけど、
第8世の宮はまだ若かったので公遵法親王の意向も反映してるんじゃないかって
気がするものの、今度は兼学に反対した円耳が追放されて安楽律派・・・
つまり兼学が復活する。

こんな感じで輪王寺宮が変わるたびに方針も変わっていき、
混乱の様子を呈していたらしい。
その後は兼学が基本とされたものの、反対派がいなくなった訳でもないらしく、
12年の籠山を終えても兼学する者としない者がいたみたいだけど、
明治に入ると兼学派は絶えてしまったんだそうな。


安楽律院の本堂には恵心僧都源信によるとされる阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の
三尊が安置されていたらしいが、昭和24年、放火による火災でほぼ全焼。
誰が放火したのかはわたくしは知らないけど、火災にあったのがごく最近のことだから
あれだけ綺麗に礎石類が残っているのかもしれない。


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最終更新日  2015年11月07日 16時28分08秒


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