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戦国ジジイ・りりのブログ

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2018年01月02日
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カテゴリ:江戸めぐり
人間は色んな面を持っている。

世間を震撼させるような事件を起こした人間だって、
近所の人にインタビューしてみると
「ごく普通の人だった」
とか
「きちんと挨拶もできるし、感じのいい人だった」
なんて答えが案外よく返ってきたりする。

天海も、多くの事績を遺しただけに両極端の評価をもらっている。
確かに、エグイよな~と思える行動もある。
人より長く生きて政治の中枢にかかわるようになって
数多くの経験をしてきた天海だからこそ、
自身の中に数多くの面を持っていただろう。
それでも、先ごろの衆院選で議席獲得のために所属する党を簡単に乗り換えた
センセイ方とは違って、天海は数多くの面を統括するポリシーとプライドを
持っていたんじゃないかと思う。

今まではあまりそういう考え方はしなかった。
せいぜいが、東照大権現と天台宗の発展に心を砕いた、っていう程度だった。

でも、これまで興味のおもむくままに色々な勉強をしてきた後で
あらためて天海の前半生を見た時、ずっしりと来るものがあった。

派手やかなイベントをいくつも開き、権門と組んだと冷ややかな誤解を受けながらも
死を意識した良源さんが「病僧の本業はこの道(講説論議)にある」としたように、
天海の「本分」もまた「学僧」だったんじゃないかと思うようになった。

もちろん、考え方なんて周囲の状況や自分自身の変化でどんどん変わる。
わたくしだって、このブログを始めた頃の脳内メーカーは100%戦国だったのが、
今じゃ寛永寺+輪王寺宮、南北朝+室町期、仏教史、長崎、江戸、平城京時代、
のあとにわずかに戦国が占めるぐらいなもんで(笑)、
天海の脳内メーカーだって前半生と後半生じゃかなり割合が変わるだろう。
それでもその奥をつらぬくものは一貫してたんじゃないかって気がした。

それで、あらためて関東における天台宗のスタート時を少し調べたりしてみて、
寛永寺創建とは直接の関係はないけど、ちょっとここで書き留めておいた方が
いいと思ったので、長らくの読者様はサブタイトルですぐに察したでしょうが、
時間軸を思いっきし戻します。

ま、最澄の歴バナにからめて同時代の関東についても少し書いているので、
同じ内容だったらリンクだけ張っときゃいいんですが、
過去に紹介した内容と180°解釈の異なる論文を読んで、
さらにそちらの説の方が腑に落ちたもんですから、
今回は『東国仏教と日本天台宗の成立-最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして-』
(熊倉浩靖/「高崎経済大学論集」第47巻第4号)を中心に紹介いたします。

まずは、最澄の経歴の中から今回と関係するところを簡単におさらい。
主語がない文はすべて最澄の経歴です。

 天平神護2年(766)勝道が日光山を開山
 延暦4年(785) 東大寺で受戒。その直後、比叡山に入り山林修行を開始
 延暦7年(788) 比叡山上に一乗止観院(のちの根本中堂)の建立を開始
 延暦16年(797)内供奉禅師に補任される。一切経などの書写に勤め、大安寺の
           聞寂や東国の道忠の援助を受ける。
 延暦17年(780)円澄が叡山に登り、師の道忠と共に一切経を納める。 
 延暦23年(804)最澄・空海が遣唐使船に乗って入唐
 延暦24年(805)唐での留学を終えて最澄帰国
           高雄山寺(神護寺)にて勤操・修円・広円ら当代の碩学8人に
           三部三昧耶の妙法を伝授する
 延暦25年(806)日本天台宗が公認される。空海が唐から帰国
 大同3年(808) この頃、広智に伴われて円仁が最澄に師事する。
 弘仁3年(812) 空海より金剛界・胎蔵界の結縁灌頂を受ける。
 弘仁5年(814) 九州巡錫。空海が勝道のために「沙門勝道歴山水螢玄珠碑」を撰す
 弘仁6年(815) 東国巡錫
           空海が徳一や勝道とみられる「東国の某師」に真言宗普及のための協力を
           要請し、広智に真言密教の経典書写の援助を依頼。

 弘仁7年ごろ?   空海と決別
 弘仁8年(817) 勝道没。
 弘仁9年(818) 自ら具足戒を捨て、叡山に大乗戒壇の設置を主張。
           六所宝塔造営の願文を起こす。「山家学生式」を発表。
 弘仁13年(822)最澄没。その7日後、大乗戒壇設立の勅許が下りる。
 弘仁14年(823)「延暦寺」の寺号を賜り、官寺となる。
 天長4年(827) 空海が広智に「十喩を詠ずる詩」を贈る。
 天長10年(833)円仁が初めて如法経書写を行う。

リンク貼りまくり~。
いや、「叡山攻め」は我ながらホント頑張ったよなあ。
・・・じゃなくて。

経過を思い出していただくために直接には関連のないものも
ピックアップしてますが、今回中心となるのはもちろん東国に関する部分。
青字の文は過去の記事にない部分で、一覧にした方が流れがつかみやすいと思ったので、
初出の出来事も一緒に並べました。

 
空海と別々の道を歩み始めたのは「弘仁7年ごろ?」としてますが、
最澄が東へ伝道の旅に出る前という可能性もある。
んで、熊倉氏の論文によると最澄が東へ下向した理由はいろいろと説があるそうで、
その1が泰範は帰ってこないし空海たんには説教されるし、で
プランの変更を余儀なくされた最澄たんが「失意と失地を挽回するために」(前掲論文より)
新天地を求めて旅に出た、というもの。

その2は徳一さんとの関係によるもので、徳一さんと最澄たんのバトルが激化した頃と
東北巡錫の時期が重なることから、それに関連したのだろうということ。

その3・・・これがオドロキの内容なんですが、
上野の緑野(みどの)寺と下野の大慈寺に塔が完成したので、
最澄たんの来訪を招請したというもの。
ここのところ、前掲論文では2つの塔のことを「安東・安西両塔」と表現している。

・・・安東・安西両塔?
「六所宝塔」のこと!?
いやでも、緑野寺と大慈寺は確かに最澄たんの六所宝塔に含まれてるよな。

その3の説は菅原征子氏によるものだそうで、前掲論文を読み進めると

 【両塔は六所宝塔の一で、最澄の発案とされるが、『最澄の上野、下野での活動は、
  史料上で確認できるのは、半年ほどの、ほんの短い期間なのである。従って
  最澄自らが、上野、下野でのそれぞれ法華一千部八千巻ずつの写経に加わったり
  塔の造立の過程を見守っていたとは考えられ』ず、両塔造立は、東国の知識集団が
  『法華経写経と共に進めていた活動であって、その完成にあわせて最澄の赴向を
  要請し、彼によって、完成した一千部法華経の宝塔への安置、四種の会衆とも
  いうべき両毛の知識を集めての連日の法華経の長講、大乗菩薩戒の授戒、付法潅頂の
  伝授等々を計画実施したものと考えられる。』】

は!?
あくまで最澄たんは完成披露に華を添える豪華なグェ~ストで、
両毛の知識集団あげての華々しいイヴェ~ントに最後の仕上げとして
授戒・伝法や長講を行いに出張したってことデスカ!?
オドロキの内容はまだ続く。

 【『広智らの一連の活動に対する最澄の東国赴向の関係は、画龍点睛というべきもので、
  あくまでも主体は在地の知識集団にあったといえる』とし、翌年の六所造宝塔願文は
  『東国での体験をふまえてつくられたものであろう』とされた。】

ぶっちゃけ、最澄たんの六所宝塔はパクリだってことッすか!?
いやもう、目がテンどころじゃないんですけど・・・
さらにダメ押しの内容は続く。

 【薗田(香融:戦国ジジイが追加)氏もまた、東国仏教が最澄に与えた『その一は鑑真の
  遺弟道忠の門徒との接触による無遮戒(道俗貴賎男女をとわずに授ける大乗菩薩戒)の
  理念に洗礼されたことである。その二は彼が新しい理念の表詮として、大乗戒の独立
  という形を以ってしたことである。授戒という結縁の儀式によって民衆を教化した
  最澄の東国伝道の結果として、最も注目したいのは、この大乗戒問題に及ぼした影響
  である』と結ばれている。】

こ、今度は大乗戒の独立デスカ・・・
話がデカすぎてもう腰が抜けそうですぅ~。
最澄たん信奉者なら

「おのれ、最澄たんを侮辱するか!
 無礼者!
 そこへなおれ~い!!」


って激怒するかもしれない内容ですが、別にィ最澄たんのオリジナ~ル性が
いくつか削られたところで~、彼自身の事績に大きなキズがつくわけでもないですし~。

て動揺のせいで言葉が少しおかしくなってますが、
ホントにびっくりしたんです、この内容。
「叡山攻め」では最澄の経歴・事績が大きなファクターだったので、
シロートなりに「戒」についても真面目に書いてきましたのでね。

それで、そもそも東国の仏教ってどんな状況だったんだ?
最澄のサポートをした道忠は鑑真に学んだ人だったのか・・・
鑑真といえば本格的な授戒を行うためにはるばる日本にやって来た人として有名なのに、
なんでその弟子が師の教えに反するような大乗戒独立の協力メンバーなんや?
とか次から次へと疑問がスパークして、手持ちの資料などをあちらこちら読みあさり・・・
で、「ライトに」路線変更してシリーズを再開したハズなのに、
結局それまで以上にドツボにはまり込んでしまったというギャグのような事態に陥って、
ふたたび更新がストップしてしまったというのが2017年末のわたくしでした。

にほんブログ村の統計によると、過去365日でわたくしが記事をアップしたのは
たった15回・・・
わたくしらしくない更新頻度に我ながら大笑いですが、
たとえ脱線と言われようが食いつくところに食いついて考え、
書き続けていく性分はどうしようもないので、仕方ありません。
勉強に何一つ無駄はないしね。

てことで、気長にお付き合いいただける奇特な方は
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
次回は熊倉氏の語る東国仏教の状況などについて紹介をしていきます。


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最終更新日  2018年01月02日 18時36分56秒


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