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約一年前のFB記事
漫画の罪と罰(落合尚之作)は、最後まで読んでみると肩すかしだった。 共依存という苦しい関係に漫画化のテーマを絞ったのは、新しかったが、最後の結末の回心が、人間のつながりに回帰するとは。 新しい生活がはじまるというのをそういうふうに解釈もできるが、それじゃあ皮相すぎる。 最後の夢のシーンも、人間のエゴイズムの悪夢でなく、愛を信じれなくなる病と微妙に変わっていた。 もちろん作者なりの創作の自由だが、そういう意味では古い手塚治虫の漫画の方が原作に忠実な余韻が残る。 ドストエフスキーは圧倒的にラストで盛り上がってくるのだが、ラストとともに失速してしまった。 もう続きを見るのはやめようかと思うが、ドラマはもっとひどい出来だろう。 手塚治虫や黒澤明の作品(白痴)はそんなことはなかった。 ドストエフスキーの原作は、チャクラとサトルボディ的に解釈すれば、第二チャクラの共同体志向(つながりとつながりから切り離された孤独)から、第三チャクラの個人の力に突出するところから生まれた悲劇とストレスと、さらに第二チャクラに回帰するのでなく、上に向かって上昇する回心以後の新しい暮らしがラストのエピソードだと解釈できる。 そういうチャクラとかサトルボディとかいう枠組みにも収まりきらない魂の小説だが、無理矢理解釈すればそういうふうにも言えなくもない。 なににしろ日本で言えば幕末の頃に書かれた古い小説なのだ。まだまだ家族とか共同体とかの絆が強かったそういう時代背景もある。 それを現代日本に置き換えたから、共依存的な関係(第二チャクラの病)からの脱出というテーマにしてしまったからか、スビドロガイノフ的な第三チャクラの突出した孤独が、単なる欲望肯定の強度みたいな話になって、そんなものより第二チャクラに回帰して、共依存でも何でもつながりはあった方が良いし、持った方が良いという結末になってしまった。 これではノスタルジックな反近代だ。 孤立もグローバル化もしんどいから、昔に帰って家族を大切にして、それ以外は排外しましょうというトランプさんへの道ともリンクしてる。 感じたりつながったりする第二チャクラを切り捨てて、パワーの世界を生きてるひとほど、ときどきハワイに行って自然や身体とのつながりを取り戻したり、サーカーの応援とかして、共同体的なつながりを感じたいのだが、そうやって元気を養ってまた個人のバワーの世界に戻っても、意識の上昇はないし、ハートは開かない。 それは退行してるだけだ。 ドストエフスキーの結末はこうでなかった。 では小林秀雄が書くように、ムイシュキン公爵は、シベリアから帰った(つまり意識が上昇した)ラスコーリニコフだとしたら、白無垢のおばかさんが、世間と関わるとどうなるのかを描いたのが白痴だとして、第四チャクラと第四身体の発達したひとが(つまりハートのひとが)が生きて行く受難はこちらに描かれてるから、罪と罰より好きなのかなあ。 いずれにしろ漫画読んで熱から冷めようと思ったのに、また小説を読み返したくなってしまった。やれやれ。 http://fbk.is/book/comic/detail/Ai3zUU1Yww お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.02.23 16:19:49
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