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カテゴリ:瞑想・気づき
一年前にフェスブックに書いた記事です。
土日にあったアルビナのグループを手伝いました。 愛、受容、慈悲というタイトルのもので、最期に慈悲につながる瞑想をしました。 その時、ちょうど「愛も受容も僕は何んにもわかってないなあ・・」といったマインドに襲われていたのですが、いつまでたっても愛も受容もわからない僕自身に、慈悲の気持ちをもってみようと瞑想してみました。それがすごくよかった。 アルビナの説明では、慈悲というのは、愛と共感のフィーリング。痛みがあっても、それに対して、何もできないという気持ち。 何もできないけれど、慈悲を感じれる。 まさにそんな感じで、自分自身に慈悲の気持ちを向けました。 金貸し婆さんを殺したわけでもないのに、金貸し婆さんを殺したのは僕なんだと、と叫びながら告白して大地に接吻したいような衝動が、雑踏のなかを歩いているとやって来るときがある。 同時に、金貸しどころか、自分自身を(押し)殺して、歩いて、生きてるんだけど、まるで死んでるように歩いている人々の群れ(人類)に、何もできない痛みを感じて、胸が張り裂けそうになることがある。 中学生の時に、寺の息子でもないのにフォークギターで節をつけて、衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成 と歌ってた。 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済したいし、煩悩は無量だが、すべて断ちたいし、法門は無尽だが、すべて知りたいし、仏の道は無上だが、かならず成仏したいんだという気持ちを、たぶん生まれたときから強く持って来たような気がする。 しかし少年老いやすく、学成りがたく、もうそろそろ本当に成仏しそうな年になってきたのに、未だに、愛も受容もわかったようでわからないと感じる時がある。 自分にそういう強い気持ちがあることも忘れて、夜中まで、ウォーキング・デッドの新作を見てどきどきしたりしている。 最近はアイアン・フィストがお気に入り。 瞑想か、アイアン・フィストの続きを見るか、と選択すれば、続きを見てしまう。 そんな自分は受け容れているが、深~いところで、未だ悟っていない自分を責めている。 それだけでなく、悟りを開いて、衆生を救済していない自分を責めている。 ひとびとの苦しみを感じる。 ハートを開けば開くほど、ものの哀れを感じる。 生きとし生けるものは、救われず、煩悩は無尽で、原稿の締め切りも守れないのにアイアン・フィストを見てしまう僕。 そんな僕自身と、人類の苦しみが、ごっちゃになって、圧倒的にその瞬間迫って来て、涙があふれ、慈悲を感じた。 なにもできない。 慈悲。 すると頭の中はマジェンタカラーみたいな色になって、驚いた。 なんとなくぼんやり、としたイメージで、ただ黙って佇んでる仏像のような映像も浮かんだ。 それから、瞑想の中で、二十数人の人が、慈悲という本質につながっている場にいるのだと感じて、感動した。 グループの最中は、給湯室でお湯を沸かす時間が多くて、喋っていない参加者も多いのだが、慈悲という本質につながっているみんなとのつながりを感じた。 僕の慈悲とか、誰かの慈悲とかいうものでなく、慈悲という大きなものにみんながつながっているそのつながり。 僕もその大きなものに属している。 最期にアルビナが「慈悲を感じて、そして信頼につながります」と言った。 するとまた扉が開いた。もっと光りになって、目を開けたら、そこは地上天国ではなくて芦屋市民センターだが、美しかった。 帰り道、「未だエンライトメントしていない自分に慈悲を向けた」と喋ったら、アルビナが「good」と言ってた。 なんてたって、その僕のこだわりについての形而上学的手術のチームの担任の先生だ。 ひと言でわかってくれた。 ありがとうといってハグして別れた。 ありがとうアルビナ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.03.21 12:13:37
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