カテゴリ:民衆の歴史
デパートの誕生(40)
冒頭に掲げたのは、昨日記した通信販売用カタログに貼り付ける生地の裁断機です。こうして裁断したものを、さらに店員が小さな四角形に切り分け、カタログに貼り込みました。 さて、注文者の手紙がボン・マルシェに到着すると、先ず開封専門の係りが、次々に開封していきます。次に読み上げの担当者が注文書を読み上げながら、注文商品別に分類して、当該の売り場に回します。売り場は注文書通りに商品を揃え、内容が一致しているかどうかを確認して、梱包係りに回します。梱包後に今度は発送地域別に仕分けされ、やおら発送方面別の駅などに送られるのです(パリでは、方面別に市内にいくつもの鉄道駅に分かれていたからです)。 方面は多方面に渡っていましたが、送料の負担はどうなっていたでしょうか。地域によるのですが、フランス国内とドイツ、イタリア、スイス、オランダ、ベルギーなど近隣諸国は、注文代金が25フラン以上で無料となっていました。その他の国や地域は実費をいただくスタイルでした。 カタログ通販の開始は、地方と外国の需要を掘り起こしました。ヨーロッパ中から顧客が現れるようになったのです。それだけではありません。あまりはっきり見えませんが、下の写真は、ボン・マルシェの通信販売部の作業風景です。奥にオセアニアという看板が見えます。オセアニアからの注文を集める場所を指示したものでしょうから、19世紀末のボン・マルシェには、オーストラリアやニュージーランドからも、注文が届いていたのですね。 パリにボン・マルシェありを、万国博覧会を利用してアピールしたプシコー戦略は、見事に花を開いたと言えましょう。新館がオープンした1872年の年間の通販の売り上げは、約500万フランだったのですが、30年後の1902年のそれは、約6,5倍の3,330万フランに拡大しています。これは店全体の売り上げの伸び率、5,5倍を上回っていました。この年、オセアニア方面の売り上げは分かりませんが、アメリカ大陸からの注文は100万フランに達していました。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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Mrs. Lindaさん
>奇妙な形ですね。ギロチンかと思いました(笑) > ギロチンは、もっとずっと「せいたかのっぽ」です。済みません元ネタの関係で写りが悪くて… >これだけ商売に徹すれば、世界一のデパートになれた筈ですね。 もう脱帽、降参しました。 ----- 全く見事です。 ところで、通信版売部の作業風景の写真、入れ込み忘れていました。挿入しておきましたので、ご覧下さい。 ザビ (2009.11.21 17:44:35)
kopanda06さん
>カタログもかなり手間隙かけられていたわけですね。 >それでもそれを上回る収益があったのでしょう。 ----- 実は、通販以外でも、カタログが威力を発揮した場面がありました。150万部のうち50万部がパリ市内及びパリ近郊で配られていたことが、ここに絡んできます。 ザビ (2009.11.21 20:44:40)
「デパートを発明した夫婦」到着しました。
ぱらぱらっと目次を見てみましたら、福利厚生にも力を注ぎ、退職金制度まで作られたのですね。 偉大なご夫婦です。 読むのが楽しみです。 (2009.11.22 09:13:04)
吉祥天2260さん
>「デパートを発明した夫婦」到着しました。 >ぱらぱらっと目次を見てみましたら、福利厚生にも力を注ぎ、退職金制度まで作られたのですね。 >偉大なご夫婦です。 >読むのが楽しみです。 ----- プシコー夫人の功績も大きいのですよ。その点も出てきますが…… 読まれましたら、ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』も是非お読みください。 ザビ (2009.11.22 11:28:45) |
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