本のタイトル・作者
本とはたらく [ 矢萩 多聞 ]
本の目次・あらすじ
1 学校とセンセイ
2 インドで暮らす
3 絵を描くこと
4 本をつくる
5 日本で暮らす
6 本とはたらく
引用
本は縁側みたいだ、と思う。一冊の本がきっかけになって見知らぬ人と出会う。なにげなくめくった一ページから会話がはじまる。本のまわりにはいつもにぎわいがあり、ちょこんと腰をおろせる場所がある。
本の居場所は書店だけではない。(略)……あたりを見回せば、いろんなところに本があるものだ。
紙の本は万能ではない。読まずに積みあげられる本もあれば、たった一節の文章に救われることもある。自分にとって一生の宝物となる本も、他人にとってはただの紙の束にすぎないかもしれない。本はそれを読み、活かしてくれる読者がいてこそ完成する。
感想
2022年227冊目
★★★★
この本、良かったです。良い意味で期待を裏切られた。面白かった。
装丁家の本で、タイトルが『本とはたらく』。
だから、たぶん美大とか出たりとかした人が、本の装丁をしているうえで気にしていることとか、デザインのこと、作者との打ち合わせ秘話、本の装丁の仕組み…みたいなことを語ると思うじゃないですか。
違うからね。
著者は、1980年生まれ。小学生の頃から不登校になり、中学生のときにインドへ移住。
半年ごとに往復し、自らが描いた絵で展覧会を開催。
本のデザインもはじめ、これまで600冊をこえる本を手掛ける。
2012年京都に移住し、出版レーベルAmbooksをたちあげる。
「
本とこラジオ」パーソナリティをつとめる。
…おいおいおいおいおい何か思ってたんと違うぞ!
ってなるんですよ。
で、この本はほぼ著者の自伝。
本の1~5は、『偶然の装丁家』(晶文社、2014年刊)の再録。
前のタイトルのほうが中身を体現している。
不登校時代の話も、その後のインドの話も濃くて、もうそれぞれの章が単体で一冊の本になるレベル。それから独学の絵描きになり、装丁家になり…。
波乱万丈。読み応えがすごかった。
随所の出会いがこの人の人生を支え、変えてきたんだなあ。
そしてそれは言葉であった。
小学生の時の担任の石井先生が、すごく素敵。
朝、学校に遅刻してくる著者に、先生は言うんですよ。
堂々と入って来なさい。一日をコソコソした気分で過ごすことにならないよう。
「ここから一緒に今日という日をはじめるんだ」。
石井先生は延々「やまなし」をやったり、感情的になって教室を飛び出しちゃったり、先生自体も変わってるなあと思うのだけど、私とさして年の変わらない著者の時代に、こんな大らかな先生が許されていたのだなと思った。
ゆるされて、という言葉に今をあらわす乏しさを感じるのだけれど。
そして、インドにいた頃の話。
バンガロールで子どもたちや先生に豊かな教育の在り方を伝えていたNGO「カタラヤ(語りの家)」。
そこの代表、ラルーは、英語が下手だと投げ出そうとするたびに促す。
「話してごらん、ぼくにはわかるよ。おなじ言葉を話していたってわからないことだらけなんだ。言葉ができるできない、ということと、伝わる伝わらない、ということは別問題さ」
同じく代表をつとめるギータは言う。
「宇宙は原子ではなく、物語でできている」。
言語。言葉。物語。それを伝えるもの。
著者は、電子書籍ではなく紙の「本」はシンプルで強靭で、文章を読むものとして完成したフォーマットだと言う。
確かに。
私は電子書籍のアカウントを複数持っているけれど、あちこちに作り過ぎてどこに何の本があったのか分からなくなってしまっているし、おそらくサービス終了してしまったものもあるんじゃないか。
電子の本は、強いようで脆い。
この本良いよ、と思っても貸したり譲ったりも出来ない。
手に取って眺めることも。紙質を楽しむことも、インクの光による変化を楽しむことも。
電子書籍になれば、装丁家という職業は存在し続けられるのだろうか。
それは「表紙」を考える人、になるんだろうか。
けれど電子書籍の表紙って、ほとんど覚えてない。なぜだろう。
ただの「アイコン」みたいだからか。
その本の「量」が目で見えないのも、電子書籍があまり好きになれないところ。
手に取った時の重さと厚み。
そして読み進めている時に栞を挟んで閉じた時の、この本における自分の居場所。
私はこの瞬間がとても好き。
これまで知らなかったことを知り、そしてまたこの先にこれだけ知らないことが残されてる。
厚さにすれば数センチのこと。そこにいかに芳醇な物語が紡がれ、豊かな世界が広がっているか。
ただ、インクが紙に載っているだけ。
言葉が違えば意味さえもわからないそれらの曲線と直線。点や丸。
それらが口を開けて喋り出す。饒舌にとめどなく、時に言葉を詰まらせて。
私はそれを聞くことが出来る。文字が読めるだけで。本を開くだけで。
なんて贅沢。
日本では1日に200冊くらいの本が発売されているそうだ。
(
総務省統計局というところが年間の発刊数のデータを取っている。)
私はこの数字を知った時、絶望的な気分になった。
どれほど読んでも、読んでも。
汲めども尽きぬほど本はある。
新刊だけじゃなく、これまでに発売された本もあるのだ。
私はいかに多くの本を読まずに死んでゆくのか。
それが悔しくてならなかった。
(私は出来るなら自分を複製して1日200冊読んであとから同期して統合記憶を持ちたい…。)
図書館にしてもそうだ。
本棚にびっしり詰まった本、本、本。
何万冊も所蔵されたその本の、いったい何冊を読むことが出来るのか?
先に紹介した総務省の統計だと、市町村立図書館の蔵書数は5万冊以上がもっとも多い。
1年に300冊読んでも、5万冊読むには166年かかる。さすがに死んでる。
著者によれば、こんなに大量の本が毎日出版される国は世界中にそうないらしい。
ラオスやカンボジアは、紛争や政治の影響で編集者や作家が投獄され、本づくりが絶えてしまったのだそうだ。
今、ようやくそれらの国では出版が再び育ち始め、年に100~150冊が出版されている。
そうしたら、どうだろう。年に100冊の本。
私はおそらく、そのすべての本を読みたいと願っただろう。
1っ冊1冊を、喉から手が出るほど欲しいと思うだろう。
大切に大切に、一文一文、一語一語を舐めるように読む。
値段が高くても、食事を我慢してでもその本を買うだろう。
何度も何度も繰り返し、同じ文章を角度を変えて読むだろう。
日本では活字離れと言われ、出版や書店は滅びる運命だと言われている。
けれど本当にそうだろうか、と著者は言う。
必要な人が存在する限り、その人たちに届ける仕事は、なくならないのではないか。
先の統計によれば、令和2年に発売された書籍新刊点数は、68,608点だ。
途方もない数字だけれど、これはたぶんもう、「必要な人」に見合っていないんだろう。
文字は溢れるのに、溢れるからこそ、本の売り上げは縮小する。
その後に残るものだけで、やっていくことになるだろう。
100冊の本。淘汰され、選ばれ、残されるもの。
私は子供の頃から憑かれたように本を読んで来た。
貪るように、追い立てられるように。
知りたい。私は、ここに書かれていることが知りたい。
ここに書かれている言葉をすべて、知りたい。
ひらがなを、カタカナを、漢字を。
ひとつひとつ読めるようになり、語彙が増え、それでも追い付かない。
ぜんぜんだ。まだまだ、辿り着けない。
世界の意味を。その秘密を。
なぜ生まれ、生きて、死ぬのか。
私はどうしてここに存在するのか。
答えはない。ということを、私は知りたい。
したり顔で口にした言葉を、顰め面で否定して欲しい。
絶えず湧き起こる疑問に、堂々巡りの質問に、何度もぶちあたる。
繰り返し繰り返し、「わかった」と「わからない」の間を行き来する。
そしてふと、すべてに意味なんてないのだと、その虚しさに儚くなりそうな時。
私を、ここに繋ぎ止めてほしい。言葉の限りを尽くして。ただの一言で。
―――君は一人じゃない。僕がここにいる限り。
だから、本を読む。
私は食べるように、本を読む。
何を食べたか忘れてしまっても、それは私の身体をつくっている。
何を読んだか忘れてしまっても、それは私の頭と心になる。
その本を世に送り出す人たちがいる。
本とはたらく人たち。
だから、炊きたてのご飯を前に、手を合わせて感謝の言葉を口にするように。
いただきます。
そして、ごちそうさま。
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