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カテゴリ:タイガース背番号史
引き続き、背番号3をいていきますが、昭和時代の3番は、あまりパッとした印象はないですね。50年代になってあの選手がつけて、よけいに印象が悪くなりました。 背番号3(その3) 上田卓三 投手 後藤のあとに背番号3をつけたのは、南海ホークスから金銭トレードでタイガースに来た上田卓三である。1975(昭和50)年から2年間在籍している。 当時炭鉱の町だった福岡県大牟田市の三池工業が、1965(昭和40)年夏の甲子園で初出場初優勝したときのエースで、このときは読売前監督原辰徳氏の父・原貢氏が監督だった。 上田は決勝でも豪腕成田(元ロッテ)率いる千葉・調子商業を完封し、ドラフト1位で南海入りするも、8年間で10勝とプロの壁に跳ね返された。 タイガース移籍後も1年目に3勝しただけで、2年目は未勝利。1977(昭和52)年に、再び金銭トレードで南海に戻り、その年に現役を退いた。 江川 卓 投手 背番号3は、後藤が退団した翌年、1978(昭和53)年は空き番になっていた。 その年の11月21日、ドラフト会議の前日であるこの日、読売は突如「江川君と契約した」と発表、驚天動地の騒ぎとなる。コミッショナーがこれを認めず、翌日のドラフト会議は読売がボイコットする中11球団で行われ、4球団での抽選の末、タイガースが江川との交渉権を獲得した。 このあたりの経過は、カテゴリ「タイガース歴史館」で「空白の一日」として詳しく書いているのでご参照いただきたい。 年が明けて新人の契約期限である1月31日、コミッショナーの案を受け入れる形で、読売が江川との契約を解除、同時にタイガースと江川が契約した上で、江川‐小林繁の交換トレードが成立する。 ただし、新人選手はシーズン開幕前のトレードが禁止されているので、江川は一旦背番号3の投手としてタイガースに支配下選手登録され、開幕日である4月7日に読売の支配下に入った。ちなみに小林は新人ではないので、2月1日からタイガースに入団している。 したがって、1979(昭和54)年2月1日~4月6日の間だけ、江川はタイガースの選手だったことになるが、もちろんキャンプには参加していない。タイガースは、長島の永久欠番である「3」をあてつけに与えたとも言われている。 背番号3をタイガースの「ドラフト1位選手」が初年度からつけたのは、唯一江川だけなのだが、開幕前日までなので、泥を塗っただけで終わったようなものである。 逆に、この一連の事件で犠牲になった小林繁の19番は、不屈の精神を象徴するかのように好印象になったのは間違いない。 藤倉一雅 内野手 江川が去ったあと、空き番となっていた「3」をつけるのは、1980(昭和55)年のドラフト外ルーキー、藤倉である。 俊足で強肩でもあったが、バッティングが一軍レベルには至らず、控え選手のまま4年間を過ごし、弘田澄男との交換でロッテオリオンズに移籍した。 長崎啓二 外野手 藤倉のあと1年間の空き番状態があり、1985(昭和60)年に、池内豊と交換で大洋から入団した長崎が背番号3を引き継ぐ。 大洋では1982(昭和57)年に首位打者を取るなど、12年間ほぼレギュラーで通したが、タイガースに移籍した時点ではベテランの域に達しており、守備に難があったため、ほとんどが代打出場だった。 85年日本シリーズ第6戦の初回に飛び出した強烈な先制満塁ホームランは、タイガース史の輝かしい1ページである。
この時期の背番号3はトレードがらみが多い印象である。特に江川については社会問題にもなって、プロ野球史に汚点として残っている。ただし、キャンプにも参加せず、一度もタイガースのユニフォームに袖を通していないので、江川が「3」だったというのを知らない人も多いのかもしれない。
続く
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