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カテゴリ:関ヶ原合戦史跡探訪記
おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していきますのでご注意ください。 今回は関ケ原の戦いまでの簡単な経緯についてから見ていきましょう。少し長くなりますが、お付き合い願えれば幸いです。 増長する家康 慶長3(1598)年豊臣秀吉が、翌慶弔4(1599)年、五大老の前田利家が没すると、過酷な朝鮮出兵などで文治派に積年の不満を持つ福島正則らが石田三成を襲う事件がおきます。 窮地に陥った三成は、不本意ながら伏見城にいた徳川家康に仲裁を求め、事なきを得ますが、その代わり佐和山城に蟄居させられてしまいました。 ![]() その後、五大老の上杉景勝、前田利長、毛利輝元らが相次いで大阪を去り、集団指導体制が崩壊すると、大阪城は家康の独り舞台になります。 慶長5(1600)年4月、国許へ帰ってから黙々と軍備を整えている上杉景勝に対し、家康は、上洛して弁明するよう要求しました。しかし、上杉側は翌月、有名な「直江状」によって上洛を拒否します。 こうなっては「豊臣政権に対する謀反の疑いあり」として征伐軍が編成され、家康は6月16日、軍を率いて大阪城を出立していきました。
石田三成の挙兵
家康が東国に向かうと、佐和山城に蟄居していた三成は、「このままでは政敵を次々と制した家康が豊臣の天下を覆すに違いない」として、活発に動き出します。 三成は7月17日に毛利輝元を大阪城に入場させると、諸大名に反徳川の挙兵を呼びかけます。翌7月18日には鳥居元忠が護っていた伏見城を攻撃して戦いを開始し、近江を経て美濃へ軍を進め、8月10日には要衝・大垣城を接収し入城しました。
大垣城
会津征伐の中止
大阪を留守にし、わざと隙を作って三成の挙兵を誘った家康は、7月25日、遠征中の小山(栃木県小山市)で評定を開きます。 すでに様々な根回しがなされていたため、この評定では福島正則が「儂は内府殿とともに三成を討つ!」と口火を切ったと言われています。 秀吉子飼いの譜代大名であるにもかかわらず、三成憎しで凝り固まった正則は、関ケ原でも重要な働きをします。それはまた別の機会に。
福島正則
これに真田、田丸を除く諸将が同調し、会津討伐軍は三成討伐軍すなわち「東軍」へと変わったわけです。東軍は正則の領地である尾張清州を目指して転進を開始しました。
徳川家康、岡山へ着陣
東軍が戻る前に尾張を抑えたかった西軍でしたが、諸将の戦意にバラつきがあってもたついていました。その間に福島正則、池田輝政は清洲に帰着し、8月22日には岐阜城、犬山城などを落としています。そのため三成は防御線を関ケ原まで下げる戦略変更を余儀なくされました。
勢いに乗った東軍は、西美濃に軍を進め、東山道(後の中山道)の赤坂宿を中心に集結して家康の到着を待ちました。 9月1日に江戸を出立した家康の本隊は、9月14日正午ごろに美濃赤坂宿へ到着。家康は岡山に設営された陣地に入りました。
家康最初陣地「岡山」
というわけで前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。
岡山は、中山道赤坂宿のすぐ南にあり、標高は53メートル。「山」と言うよりは「丘」です。次の写真の真ん中のこんもりとしたドーム状の山ですが、これを見ても「丘」って感じですよね。現在の大垣市赤坂町にあります。
ちょうど昼食時に到着した家康は、この陣地から眼下で繰り広げられる「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」を、握り飯を食べながら見ていたと言います。 次の写真は岡山の山上の平坦部。ここに家康がいたんですねえ。当時、ここから大垣城も見えたはずです。
「杭瀬川の戦い」は、家康の着陣に動揺した西軍将兵の戦意を立て直すため、三成の家老である島左近や宇喜多秀家配下の武将・明石全登が仕掛けた前哨戦でした。 西軍の攻撃で、東軍の中村一栄の部隊に多くの犠牲者が出ると、家康がすばやく撤退を命じたので、結局は杭瀬川を挟んだ小競り合いに終わった感があります。
現在、岡山の地名は「勝山」となっています。地元では一般的に「おかちやま」と呼ぶことが多いですね。 家康が、関ケ原合戦の後、最初に着陣した縁起のよいこの丘の名を、戦勝にちなんで「勝ち山」と改めたのだと伝えられています。 第二次大戦末期には、米軍の空襲に対する高射砲陣地となった時期もあり、その碑も残っています。やはり戦争に縁のある場所なんでしょうか。
この岡山本陣跡東斜面には、西暦593年創建の紫雲山安楽寺があります。
境内に入ってみると次の写真のように、本堂の扉や屋根瓦など、あちこちに「三つ葉葵の紋」が施されていて家康ゆかりであることがよくわかります。戦勝後に家康から定紋としての使用を許されたようです。
次回は、関ケ原合戦現地における最初陣地とされる「桃配山(ももくばりやま)」を紹介しますが、戦後に「勝山」と名づけたように、家康は、この岡山を合戦の最初陣地ととらえていたと思われます。
また、家康は慶長10(1605)年ころ、赤坂宿に「お茶屋屋敷」という将軍家専用の宿泊所を完成させます。 家康や秀忠も上洛の際の行き返りに宿泊したようで、万一に備えて城郭としての造りになっています。関ケ原合戦の戦勝によって、家康はこの地方に一方ならぬ愛着を持ったのでしょうね。
風情があるお茶屋屋敷の門
お茶屋屋敷跡は現在では県指定の史跡になり、庭は「ぼたん園」として一般に無料で開放されています。4月~5月が見ごろで、約150種類のぼたんの花が次々と咲き誇り、訪れる人の目を楽しませています。
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Last updated
2017年08月15日 01時27分03秒
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