|
カテゴリ:関ヶ原合戦史跡探訪記
三成の逡巡~決戦地は関ケ原へ 慶長5(1600)年9月14日に徳川家康が岡山に入り、杭瀬川を挟んで前哨戦があったのち、大垣城の石田三成陣営では、島津義弘が「陣営整わぬ東軍に対し、今宵のうちに夜襲を仕掛けるべし」と進言します。 三成が防備堅固な大垣城に居ることが大きく、家康が時間のかかる城攻めを避けたいと思っているのは想像がつきます。大垣での激突は望んでいないだろうと考え、逆にここで決戦に持ち込んで長期戦に引きずり込んでしまおうというのが、義弘の進言だったのではないでしょうか。 岡山本陣周辺の東軍配置図 しかしながら、家康側は岡山を引き払って西進する様子を見せます。おそらく大垣城下にもそのような情報を流したのかもしれません。三成としては、このまま秀頼の居る大阪へ攻め上られてはたまったものではないし、国境を超えた近江には三成の居城・佐和山城があり、これを落とされてもいけません。 家康が西に進軍するそぶりを見せたのは、長期戦となる城攻めを避け、得意の野戦に持ち込みたいという誘導だったのではないかと推量できます。 三成は義弘が進言した岡山攻撃を避け、関ケ原に先回りをして迎え撃つ戦略を選択しました。家康側の思う壺だったような気がしてなりません。一方、義弘は三成に対し不信感を抱き、急速に戦意をなくしていきますが、これは別に島津の関係で書きます。 家康現地最初陣地「桃配山」 西軍は暗いうちに大垣城を出て関ケ原に移動し布陣します。 この動きを見て家康も軍を動かし、本陣を岡山から桃配山(ももくばりやま)へと移しました。
両軍が移動したとき、関ケ原盆地は深い霧に包まれていたと伝えられます。9月15日午前8時ごろに霧が晴れ、東軍井伊直政、松平忠吉の軍勢が、西軍の宇喜多秀家隊に襲い掛かって戦いの火ぶたが切られました。 ということで桃配山の家康本陣跡です。JR関ケ原駅から東へ2キロほどで、国道21号線沿いにあります。激戦地からは直線で3キロ近く離れています。
少し上に登っていくと、見晴らしのいい平らな場所に出ます。そこが家康の本陣です。 ここには「最初陣地」と刻された碑があります。前のブログで書いたように、非公式サイトは赤坂の岡山を最初陣地と考えていますが、桃配山は「関ケ原での決戦」という切り口で見た場合の最初陣地と言っても間違いではないでしょう。
家康が腰かけたとされる腰掛石やテーブル状の石があります。でも、落ち着いて腰かけていられたのかどうか? 確かに椅子とテーブルだと言われると、そのようにも見えます。 ここにも、関ケ原町が設置した立派な説明プレートがありますよ。 桃配山の本陣から決戦地の方角を眺めてみましたが、大きな木が邪魔をして視界を妨げていました。 当時は見えたのでしょうけど、やはり遠いですね。 実は、桃配山は安全とは言えない場所です。東後方2.5キロの南宮山(なんぐうさん)には、西軍の毛利秀元が1万3千の兵を率いて陣取っています。毛利軍は西軍の「鶴翼の陣」の右翼であり、家康の本陣は敵の陣形の中に突っ込んでおり、前方約3キロには小早川の松尾山、後方に毛利の南宮山という位置関係にあるわけです。 しかし、家康は毛利が動かないことに関して、確信に近いものがあったらしいのですね。 これについては毛利秀元関連で書きたいと思っています。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年08月15日 12時30分53秒
コメント(0) | コメントを書く
[関ヶ原合戦史跡探訪記] カテゴリの最新記事
|