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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号14(その5) 背番号14の第5回目です ここで紹介する3人はタイガースでもよく働いてくれた人たちかな 野村さんはトレードで渡り歩いてるから全12球団からの白星なんて記録を最初に達成した人になってる 八木さんと伊藤さんは生え抜き選手としてタイガース一筋で 2人とも10年以上在籍してそれなりの成績を残してるわ 野村 収 投手 神奈川県平塚市の出身。平塚農業高校から駒沢大へ進み3年次からエース。東都大学リーグでの通算は47試合に登板して21勝15敗、防御率2.10、198奪三振と立派なものだ。 1968(昭和43)年のドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受け入団したが伸び悩んでいる。 1年目の1969(昭和44)年はわずか1試合登板に終わり、2年目の1970(昭和45)年が28試合で1勝2敗、3年目の1971(昭和46)年は35試合で先発も13試合しているが4勝3敗だった。この当時からホームラン配給の多い投手と言う印象がある。 ロッテでは先発とリリーフを掛け持ちする使われ方ながら、1年目に14勝10敗と結果を出す。しかし2年目の1973(昭和48)年は6勝10敗と負け越し、両年とも防御率が4点台と安定感がなかった。しかも2年間で63本ものホームランを浴びている。 この2年で見切りをつけられて1974(昭和49)年に日本ハムファイターズへトレードされてしまう。日本ハムでは1977(昭和52)年までプレーしており、二けた勝利を2度記録するも、4年間で84本のホームランを打たれ「一発病」は相変わらずだった。 1978(昭和53)年にはトレードで古巣の大洋に復帰、この年自己最多の17勝11敗と活躍しカムバック賞を受賞している。1980(昭和55)年にも15勝を挙げるなど5年間在籍しているが、ホームランも5年間で107本浴びており、毎年平均20本以上を配給するペースは変わっていない。 1983(昭和58)年、加藤博一とのトレードでタイガースへ移籍し、前年まで中村勝広が着けていた背番号「14」を引き継いだ。 2年目の1984(昭和59)年には開幕投手に抜擢されたが、シーズンではおもにリリーフに回り、2勝5敗に終わっている。 野村本人が「最高の思い出」と語る1985(昭和60)年のリーグ優勝と日本一。この年はすっかり衰えてしまい19試合に投げて1勝0敗だっった。 1986(昭和61)年もわずか15試合でのリリーフ登板で敗戦処理なども経験するなど1勝0敗に終わり、このシーズンを最後に現役を引退した。通算記録は579試合121勝132敗8セーブ1075奪三振、防御率4.02。 が、それでも通算記録歴代では19位。1位は鈴木啓示の560本なのだが、イニング数は鈴木が4600回1/3で野村は2355回2/3だ。1試合に換算すると鈴木は1.10本、野村は1.20本となり、被本塁打率では野村が上回っている。 引退後はタイガース、大洋、オリックス、日本ハムで投手コーチを歴任。 八木 裕 内野手・外野手 (再掲) 八木はすでに背番号「3」で先代が紹介しているが、詳しく再掲する。 岡山県の岡山東商の出身。高校時代は4番で野手と投手を兼ね、2年次の夏は予選決勝に進んだが関西高に敗れており、甲子園の出場経験はない。 卒業後は地元の社会人三菱自動車水島に進み、1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースの3位指名を受け入団する。最初にもらった背番号がこの「14」だったが、1年着けただけで「3」に変更し、引退まで着けている。だから次の写真は非常に貴重。 それでも球団は八木の将来を期待しており、2年目の1988(昭和63)年は1年間の野球留学としてアメリカ1Aのフレズノ・サンズへ派遣している。 3年目の1989(平成元)年、6月ごろからサードのレギュラポジションに定着し、「掛布2世」などと呼ばれるようにもなって102試合に出場、規定打席には届かなかったものの16本塁打を放ってスラッガーとしての頭角を現した。 1990(平成2)年から1992(平成4)年には、28本、22本、21本と3年連続で20本塁打を超える活躍を続ける。しかし、1992(平成3)年にはトーマス・オマリーやジェームズ・パチョレックのポジションとの絡みにより、せっかく定着するかに思われたサードから外野にコンバートされている。 1994(平成6)年~1995(平成7)年はそれぞれ71試合の出場にとどまり、さらに1996(平成8)年は怪我のために1年間ファーム暮らしで一軍に上がれずに終わったため、球団は戦力外とする意向を固めつつあった。 しかし、この年のオフに監督に就任した吉田義男は、八木の代打としての適性を見極めており、本人と球団を口説いて「代打専門」として残留させる。 この期待に応え、八木は1997(平成9)年以降、引退までの8年間を代打の切り札として活躍した。2003(平成15)年には星野監督の下でリーグ優勝も経験することができた。 通算代打成績は400打数、94安打、13本塁打、98打点、打率.235。代打での通算98打点は球団歴代2位である。 引退後は2009(平成21)年から2015(平成27)年まで、タイガースでおもに二軍打撃コーチとして若手の育成に尽力した。 伊藤文隆(「伊藤 弘利」「伊藤 宏光」) 投手 八木が1年だけ着けた背番号「14」を受け継いだのは伊藤文隆。 愛知県名古屋市出身で大同工業高時代に予選決勝まで進んだことで注目され中日から5位指名を受けたが拒否。明治大に進むも中退して社会人三協精機に入部している。 1977(昭和52)年の都市対抗での好投が評価され、同年秋のドラフト会議でタイガースが1位指名し入団することになる。もらった背番号は「20」で10年間着けており、1988(昭和63)年から引退までの4年間「14」を着ける。 4年目の1981(昭和56)年に33試合で8勝を挙げ、ようやく頭角を現してくると、1982(昭和57)年には10勝をマークしてエース級に成長するかに見えた。 ところが日本一になった1985(昭和60)年は5勝に終わり、翌年に8勝と持ち直したものの、1987(昭和62)年は0勝9敗と白星を挙げることができなかった。 1988(昭和63)年、心機一転を期して八木から背番号「14」を譲り受けて臨み、開幕から2連勝をいずれも完封勝利で飾る。しかし、4月27日の大洋戦で右踝をスパイクされて重傷を負ってからほぼ1年を棒に振った。 翌年からは3勝8敗、2勝4敗、0勝1敗と活躍することはできず、1991(平成3)年のシーズンを最後に現役を退いた。 通算成績は14年間で320試合に登板し54勝81敗4セーブと大きく負け越しており、防御率も4.43だった。エースを期待されながらなり切れなかった投手である。 まとめ 野村さんは剛速球で100勝以上している好い投手だったのね 1978(昭和53)年5月10日には 23歳で成長著しい掛布さん(翌年に初の本塁打王)の頭に剛速球でデッドボールをぶつけて病院送りにしたこともあるのよ それまで毎年三振が50~60個だった掛布さんは「死球恐怖症」でこの年だけは86個に増えてる のちにチームメートになって日本一になれてよかったけど・・・ その後ドラ1の安達投手のフォーム改良に失敗したコーチと言うのも・・・ 八木さんは先代が何度も紹介してる 1992年の「幻のホームラン」も有名だけど やっぱり初代「代打の神様」ね 一旦は引退を決意しそうだったのを踏みとどめた吉田監督もさすがね!選手寿命が8年も延びてるし 代打で大活躍したし リーグ優勝も経験できてよかったわ 伊藤さんについては先代に聞いたんだけど ストレートが半端なく速くて 調子のいいときは手がつられないくらい良かったんだって! でもあくまで「調子のいいとき」だけなのね・・・ その6に続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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