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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号15(その5) 背番号15の第5回目です 前回の3人で暗雲が垂れ込めた背番号「15」 今回は2人のドラフト1位ルーキーが背負うことになるんだけどわかる? はい一人目は湯舟敏郎さんだよね この人のおかげでグッと盛り返したんだけど その後を受けるのも話題性のあるドラ1ルーキーだったのよ ところが・・・ 湯舟敏郎 投手 鶴見信彦がトレードされたあとを受けて「15」を引き継いだのは1990(平成2)年の湯舟敏郎投手。「15」を着けた3人目のドラフト1位選手となった。 大阪府貝塚市出身で興国高校ではおもに外野手としてプレー。奈良産業大学へ進んで投手に転向し1989(平成元)年に本田技研鈴鹿に入社。安定したピッチングが評価されて2年連続で全日本代表入りしてドラフト候補となる。 1990(平成2)年のドラフト会議では大学ナンバーワン左腕の亜細亜大・小池秀郎に8球団が競合する。小池の抽選に敗れたタイガースは外れ1位で湯舟を指名し獲得している。 ルーキーの1991(平成3)年は23試合5勝11敗で防御率は4.66。もともと球威やスピードがずば抜けているわけではなく、制球とキレで勝負するだけに駆け引きを身につけるまでは打たれることが多かった。 2年目の1992(平成4)年になるとプロの水にも慣れ、11勝8敗で防御率2.82の好成績を残し、6月と9月には月間MVPに選ばれるなど優勝争いに貢献している。完投が7試合あり4つの完封勝利が光る。6月14日の広島14回戦ではノーヒットノーランを達成。タイガースでは1973年の江夏以来の快挙だった。 1993(平成5)年も自己最多の12勝6敗と貢献し、エース級の存在になる。この2年間は投球回数に近い数の三振を奪っており、キレ・制球ともに抜群で安定感があった。 しかし1994(平成6)年から3年間は大きく負け越してしまう。暗黒時代を極めるタイガースの貧打が投手陣の足を引っ張り、湯舟は1994年が5勝7敗、1995(平成7)年には5勝13敗(リーグ最多敗戦)、1996(平成8)年は5勝14敗(リーグ最多敗戦)とモロに被害を被った。 1997(平成9)年に吉田義男が3度目の監督に就任し、湯舟も久しぶりに10勝6敗、防御率3.56と息を吹き貸したが、これが最後の二けた勝利となった。 2000(平成12)年は2完封を含む4勝を挙げてやや復調しているが、オフには戦力外とみなされ、3対3の交換トレードで近鉄バファローズに移籍することになった。 近鉄に移った2001(平成13)年もシーズン初めに故障し、その影響でリリーフに配置換えされる。リリーフで36試合に登板したが結局1勝に終わり、シーズン終了後に現役を退いた。 通算成績は257試合60勝79敗3セーブ929奪三振、1182回1/3を投げて自責点524、防御率は3.99である。 2002(平成14)年にはタイガースに戻って二軍の投手コーチに就任するがなぜか1年で退団。評論家生活を経て2012年から3年間、再び二軍投手コーチを務めている。 藤田太陽 投手 秋田県秋田市出身で、県立新屋高校2年時に外野手から投手に転向している。高校時代は目立った実績がないがプロからはチェックされており、1998(平成10)年に社会人川崎製鉄千葉に入社してから頭角を現す。 1999(平成11)年には第14回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、大会では150キロのストレート主体のピッチングで最優秀防御率賞を獲得して一躍ドラフト上位候補になった。 2000(平成12)年、藤田をめぐってタイガースと読売が最後まで争奪戦を繰り広げる。このとき掛布は少年期から好く知る中央大学の阿部慎之助(掛布と阿部の父親は習志野高校時代の同期でチームメイト)を球団に推薦していたが、タイガースは逆指名枠で藤田を獲得、阿部は読売を逆指名することになる。 阿部は少年期から父親の同級生である掛布の大ファンで、当然タイガースファン。掛布から「大学に進めば逆指名できるぞ」とアドバイスを受け父親と同じ中央大学に進んでいた。タイガースが声をかければ100パーセントOKであったと掛布は述懐している。運命とは恐ろしい。 藤田は湯舟から背番号を引き継いで、「15」を着けた4人目のドラフト1位選手となったが、2000年にすでに肩を壊していた。また独特の二段モーションが酷評されて、野村監督の指示により春季キャンプで散々フォームをいじられた挙句、フォーム固めのためと称する投げ込みを強いられ肘に炎症を起こしてしまう。 結局ルーキーの2001(平成13)年のシーズンは、わずか3試合の登板で0勝1敗、防御率14.73の成績に終わり、タイガースファンの大きな期待は完全に裏切られた。 2002(平成14)年は右足肉離れ、2003(平成15)年は右ひじ靭帯の損傷と手術、2004(平成16)年は登録名を「太陽」に変えたが1年間リハビリ。怪我に泣かされドラフト1位の面影はまったくなくなった。 2007(平成19)年にはフォームをスリークォーターへ、2008(平成20)年にはサイドスローへと変えてみたが結果は出ず、2009(平成21)年7月11日、水田圭介との1対1の交換トレードにより西武ライオンズに移籍する。タイガースでは7年半で5勝9敗の成績しか残せなかった。 西武では2012(平成24)年までプレーしているが、おもに中継ぎで起用され3年半で8勝5敗3セーブ23ホールドの成績を残して戦力外となる。 2013(平成25)年はヤクルトスワローズに獲得されてプレーし、リリーフで20試合1セーブ1ホールドを記録したが、1年で戦力外となり引退。 現在は社会人チーム「ロキテクノ富山」の監督を務めている。 水田圭介 内野手・外野手 大阪府大阪市出身で、大阪桐蔭高校時代には通算55本塁打を記録したスラッガー。社会人プリンスホテルに進み2000(平成12)年のドラフト会議で西武ライオンズから7位指名を受け入団。 しかし西武時代はなかなか芽が出ず、2008(平成20)年までの8年間で公式戦111試合の出場にとどまる。毎年少しだけ1軍に上がるもののすぐに降格されるという繰り返しで、大半の時間をファームで過ごしている。 2009(平成11)年も前半で7試合の出場にとどまっており、7月11日に前述のとおり藤田太陽とのトレードが成立してタイガースに移籍し、藤田から背番号「15」を継承した。しかしこの年はタイガースでも12試合にしか出ておらず、5打数0安打1三振2盗塁の成績を残すのみだ。 2010(平成22)年、背番号を「32」に変えてみたが、一軍公式戦の出場がないままに終わり、12月24日に新井良太とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍していった。 中日に移った2001(平成23)年のシーズンは14試合15打数2安打と戦力になれずオフには戦力外、自由契約となってヤクルトスワローズと契約する。 ヤクルトでは2年間で7試合に出場したのみ。2013(平成25)年のオフに戦力外となり引退。高校通算55本のスラッガーも、プロ13年の通算で2本塁打と振るわず仕舞いだった。 まとめ 湯舟さんは暗黒時代にあってよく頑張ってくれた投手よね 先代は甲子園でよく湯舟さんが投げるのを見たそうで(暗黒時代はせいぜい1~2万人しかお客さんが観に来てなかったので当日券でほいほい好い席が買えたそうよ)スピードは平凡だけどコントロールが好くてキレのあるボールを投げてたって ただし調子が悪い日はポカスカ打たれてしまうこともあって二面性を持った投手だったみたいね 藤田太陽さんは鳴り物入りで入ったけど 潰れたと言うか潰されたというか 不遇なプロ生活を送ってる そもそも「入る前に壊れてた」って話もあるしなあ タイガースにとっては読売の阿部選手との比較で貧乏くじ引いたって言われます 当時球団の「掛布嫌い」は相当なもので アドバイスを聞かなかったために大魚を逃した感じよね 素直に掛布さんの言う通り阿部選手に本気だしてれば全く違ってたのにとおもう・・・ 3人目の水田さんは ほとんどの人が「いたっけ?」となる選手かも 水田さんのおかげで新井良太選手が獲得できたってことはあるんだけどね その6に続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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