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2024年04月15日
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背番号21(その4)

背番号21の第4回目です

ちょっと間が空きましたが続けていくので忘れないでね
 なかなかスター選手が生まれない背番号「21」だけど 今回最初に登場する投手が 初めて「ドラフト1位入団の選手」として着けます 結果はどうでしょうね

この第4回では3名紹介しようとおもうんですが 実は3人のうち2名がドラ1入団なのよ さらに残りの一人は日本歴代2位の通算算350勝を誇る鉄腕投手だよ 皆さんわかるかな?

ではもったいつけてないで本文に進みますね

五月女 豊 投手

栃木県鹿沼市出身で高校は鹿沼農商高校。3年時の1967(昭和42)年に夏の選手権で甲子園に出場するが1回戦で今治南に0-3で敗れている。
 高校卒業後1968(昭和43)年から社会人の日本石油に籍を置くが、プロが目をつけるほどの目立った存在ではなかった。

ところが1972(昭和47)年の日本産業対抗野球大会が運命の転機となる。2回戦の対日本生命戦でノーヒットノーランを達成、準決勝では当時の強豪大昭和製紙、決勝では鐘淵化学を連続完封して優勝。五月女は最優秀選手賞に輝き、一躍ドラフト候補となった。

1972年のドラフト会議でタイガースが1位で指名し入団、引退した山尾の背番号「21」を引き継ぐ。


 しかしプロの壁は厚く、ルーキーイヤーの1973(昭和48)年は公式戦わずか3試合の登板で0勝2敗、防御率6.00の成績で終わっている。

2年目の1974(昭和49)年は先発した8月8日の大洋ホエールズ戦で7回4失点ながらプロ初勝利を挙げるが、シーズンを通して9試合しか使ってもらえず1勝0敗、防御率3.00だった。

3年目も10試合で0勝0敗に終わる。シュートやシンカーなど右打者のインコースへ投げる変化球は好いものを持っていたが、肝心のストレートが二級品なため変化球も生きてこない。

タイガースは3年で見切りをつけ1975(昭和50)年オフ、太平洋クラブライオンズの片岡新之介とのトレードにより放出している。

 ライオンズではおもに中継ぎとして貴重な戦力となり、在籍5年間で111試合に登板8勝8敗1セーブ、279回2/3を投げて自責点127、防御率4.09の数字が残る。

 1982(総和57)年には大洋ホエールズに移籍しており 3年間で9勝をマークするなどやはり中継ぎとして貢献したが、タイガース戦ではよく打たれたという。

通算235試合18勝17敗1セーブ207奪三振 475回で自責点215、防御率4.07。

米田哲也 投手

鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市)出身。少年時代は捕手だったが境高校に進学すると地肩の強さと顔の怖さを買われて投手に転向。いつもあと一歩で甲子園出場を逃していたが、剛腕投手としての評判は出場組をしのいでいた。

1956(昭和31)年に阪急ブレーブスと契約するが、その後地元後援者の策動によって大阪タイガースとも契約してしまい、二重契約問題が起こる。

この問題は最終的に井上コミッショナーの裁定によってブレーブスへの入団で決着するが、事前にコミッショナーから聴取された米田が「背番号18」を確約してくれたブレーブスを希望し、その意向を汲んでの結論だったようだ。この時点ではタイガースとは縁がなかったということだろう。

米田の実績を書き連ねると簡単に終わらない。大投手であることは、多くの通算記録のベスト10に登場していることからわかる。これから主だった数字を見ていくことにする。


 通算登板試合数は949。岩瀬仁紀が抜くまで歴代1位だった。岩瀬は99.9パーセントがリリーフ登板なのに対し、米田は66パーセントが先発という中で達成しておりタフで頑丈だったことがわかる。

通算勝利数350。金田正一の400勝に次ぐ歴代2位。

通算先発数626試合。歴代1位。

通算完投数262。上には上がいてトップは金田の365。米田は歴代8位。

通算完封勝利64。トップはスタルヒンの83で米田は歴代7位。

通算投球回数5130回0/3。金田の5526回2/3に次ぐ歴代2位。

通算奪三振3388。金田の4490に次ぐ歴代2位。

通算失点1940。歴代1位。

通算自責点1659。歴代1位。
 

あだ名が「ガソリンタンク」「人間機関車」など 丈夫なうえに力持ちという印象があったのだろう。ほかにも驚くような記録を残している。

19年連続二けた勝利。これは現在も日本記録。いかに故障が少なく長く働いたかの証明だ。今はこれほどの投手なら途中でメジャーへ行ってしまうから今後誰も破れない途方もない記録だ。

20勝以上は8シーズンあるが、最多勝は1度(1966年25勝)しか取れなかったのは不思議なくらいである。

また高校時代からバッティングにも自信を持っており、打率は低いが長打力は相当なものだった。通算本塁打33本は1位・金田正一の38本、2位・別所毅彦の35本に次ぐ歴代第3位である。また、満塁本塁打とサヨナラ本塁打の両方を記録したことのある唯一の投手でもある。

阪急には1956(昭和31)年から1975(昭和50)年の途中まで足かけ20年在籍し、902試合338勝278敗1セーブの数字を残している。

1975年は登板数が減ったため、シーズン途中に自らトレードを申し出てタイガースに移籍してきた。背番号は「38」。

 この時のタイガースは第一次吉田義男監督の1年目で、投手コーチに通算320勝の小山正明がおり、350勝を目指す米田の登板間隔などに気を使いながらバックアップしたため、移籍後に22試合8勝3敗1セーブの数字を残し、阪急で挙げた2勝を加えて年間10勝を達成している。

350勝まであと4勝となって迎えた1976(昭和51)年、米田は達成を期して背番号を「21」に改めてシーズンに臨んだ。

この年のタイガースはラインバックやブリーデンの加入や掛布の成長などでチーム力が上がり、終盤まで読売との優勝争いを繰り広げた。小山に代わって就任した皆川睦男投手コーチも、優勝争いの中では現実主義にならざるを得ず、衰えの目立つ米田の登板機会は大幅に減ったため13試合2勝2敗に終わっている。

350勝まであと2勝とはなったが、シーズン終了後にタイガースは米田に戦力外を通告する。背番号「21」は1年間しかつけなかったことになる。
 自由契約選手となったが、現役をあきらめきれない米田に手を差し伸べたのは、阪急時代の監督でもあった近鉄バファローズの西本幸雄だった。

1977(昭和52)年、西本監督のもとでコーチ兼任で臨んだ米田はなかなか勝てなかった。シーズン終了間近の10月7日、西宮球場での対阪急戦。ここまで11試合1勝2敗で迎えた米田は、監督の計らいで6-1と近鉄が5点をリードした状況で4回裏に登場し2イニングを投げ1失点で降板、勝利投手の権利を得る。残り4イニングを3人の投手がリレーして逃げ切り、悲願の350勝達成となった。さすがに納得できたのか10月18日に米田は引退を発表している。

米田が再度タイガースとかかわりを持つのは、あの日本一に輝いた1985(昭和60)年のことだ。2度目の監督に就任した吉田義男は西本幸雄からの推薦を受け、米田を一軍ピッチングコーチに迎える。米田は苦しい台所の投手陣を預かって何とか恰好をつけ、シーズンを戦い抜いて日本シリーズも制した。
 ただし、徐々に吉田監督と意見が合わなくなり、1986(昭和61)年にはブルペン担当に配置換えされてシーズン終了後に退団している。

現役22年間の通算成績は949試合350勝285敗2セーブ、被安打4561(これも歴代1位)、3388奪三振、5130回で自責点1659、防御率2.91という素晴らしいものである。

益山性旭(せいきょく) 投手

兵庫県宝塚市出身だが、高校は大阪府の福島商業(現履正社高校)に進んでいる。全国大会には縁がなかったが速球派サウスポーとしてスカウト等には知られた存在だった。

1972(昭和47)年のドラフト会議では大洋ホエールズから4位指名を受けたが、入団を拒否して帝京大学へ進学する。大学では速球に磨きがかかり首都大学リーグ戦通算78試合29勝31敗の数字を残す。援護に恵まれず負け越しているが防御率は1.65である。速球で奪った通算三振はそれまで上田次郎(東海大~阪神)が持っていた393個を大幅に更新する450個を記録し、50年近く経った現在もリーグ記録として破られていない。

1976(昭和51)年のドラフト会議では文句なく1位候補となり、タイガースが1巡目指名して入団が決まる。背番号は自由契約となった米田がつけていた「21」を継承。入団時には「巨人戦で王・張本から連続三振を取りたい」と抱負を語っている。

1年目の1977(昭和52)年から1軍公式戦で使われており、6月にデビューして以降28試合に登板し、6度の先発も経験した。結局3勝3敗、77回2/3を投げて65奪三振、自責点35防御率4.04の成績だった。

1978(昭和53)年、タイガースは後藤監督の下、史上最低勝率で初の最下位の屈辱を味わったこともあり、投手陣は軒並み援護のない状態で成績を落としている。益山は45試合に投げ1勝10敗、防御率5.40と散々だったが、7月2日の広島戦では9回一死までノーヒットノーラン、惜しくもその後1安打1点を失ったが、北別府に投げ勝って初の完投勝利でこの年唯一の白星を挙げている。

スピードはあるが制球がままならず、突然コントロールを乱して勝手に崩れてしまう。この状態が治らないまま1979(昭和54)年から1982(昭和57)年までの4年間は1勝5敗1セーブ、0勝0敗、3勝3敗、3勝6敗と低迷が続き立ち直れない。

1983(昭和58)年はついに1軍登板がなく現役引退、翌1984(昭和59)年はバッティング投手として過ごす。

ところが打撃投手をしているうち、徐々に制球力がついてきたのと、チームに左投手が少なかった事情もあって、1985(昭和60)年に現役復帰。

優勝争いをするチームにあって、中継ぎとして微力とはいえ8試合に投げ優勝メンバーに名を連ねることができた。それで満足したのかやはり限界だったのか、シーズン終了後には改めて現役引退している。
 背番号「21」は7年間着け、打撃投手時代は「95」、現役復帰後は「39」を1年だけ着けた。

現役通算成績は167試合11勝27敗1セーブ、414回を投げて262奪三振、自責点213防御率4.63だった。

まとめ

三者三様で悲哀を感じさせるなあ

五月女さんと益山さんは同じドラフト1位で似たとこもあるけど、五月女さんは他球団でかなり貢献してるよね

益山さんはタイガース一筋 しかも一度引退して打撃投手になってからまた復活の現役復帰 しかも最後はいちおう優勝の一員に加わってもう一度引退というのもどう言ったらいいのか ツイてるって言えないこともないか・・・

米田さんは打者でいうと野村さんみたいな感じかなあ 野村さんは「ONの陰に咲く月見草」なんて自嘲してたみたいだけど、米田さんは「金田さんに追いつけないナンバー2」って感じよね

でも記録を見ればすごいよ 今の選手じゃまねできない もっとリスペクトされてもいい投手じゃないの? 22年間これだけ投げて 特にケガも故障もないなんて秘訣を聞いてみたいよ

 背番号21の5へ続く




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Last updated  2024年04月15日 23時32分41秒
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Re:タイガース背番号史 21ー4(04/15)   ヒロくん2010 さん
おはようございます😃
少し雲はありますが良く晴れていて、爽やかな風があり、日中の最高気温は23℃になる予報の東京都清瀬市です。

五月女さんも益山さんも少ないながらも記憶にあります。
米田さんは阪急の投手というイメージのほうが強いですね。

では、素敵な火曜日をお過ごしください😃 (2024年04月16日 10時55分53秒)

Re[1]:タイガース背番号史 21ー4(04/15)   タイガース非公式サイト2代目 さん
ヒロくん2010さんへ
コメントありがとう
そうなのね 五月女さん 益山さん 歴史上の人って感じしかないけど ヒロ君さんの記憶にちょこっと残ってるってことは無名で終わったわけじゃないってことなのかな
今回調べてみて米田さんは二重契約でタイガースとも縁があったのがわかったのよ
高校1年くらいからスカウトが真剣に口説いてたらタイガースに入るってこともあったかもしれないね 「18」だってあげればよかったし 米田さんがいたら5~6回は優勝できたとおもうな (2024年04月16日 12時55分41秒)


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