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2024年06月03日
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背番号22(その4)

背番号22の第4回目です

今回は田淵幸一さんの紹介です 村山さんの衰えるのと入れ替わるように「ミスター」となっていった人ね

タイガース時代の田淵さんを調べてると「スター選手の辛さ」というものがなんとなくわかってくるのよ 特にタイガースという球団は関西で唯一のセリーグ所属だし 創設以来 東京の巨人に対抗する大阪のタイガースっていう構図が「伝統の一戦」なんて呼ばれ方をしてて 気の小さい選手なんかには大きなプレッシャーになって襲ってくるのよ

そして巨人の沢村さん 川上さん 長嶋さんというスターの系譜に対抗するかのように タイガースにも景浦さん 藤村さん 村山さんというスターがいたのよね

そうした流れに巻き込まれていくのが田淵さんなの これはもうスター選手としてタイガースにいる以上避けられないこと 多分ネアカな田淵さんだったから耐えられていたんだとおもう では本文へ 長くなるけど最後まで読んでね

田淵幸一 捕手・内野手・外野手

東京都豊島区出身。地元の区立高田中に入って野球を始め、すぐに頭角を現す。当時は痩せてひょろひょろしていたことから、付いたあだ名が「もやし」だった。

法政一高へ進学すると1年生の秋からレギュラー捕手になっているが、毎年強豪校と言われながら在学中に全国大会への出場は叶わなかった。

法政大学へ進むと松永怜一監督のもと山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれ3度のリーグ優勝を経験する。特に話題になったのはホームランで、3年時の春にそれまで長嶋茂雄が持っていた通算記録8本を早々と抜き去り、その後もどんどん記録を伸ばし続けて、最終的に22本という大記録を打ち立てた。約30年後に高橋由伸が塗り替えるまで不滅と言われた大記録だった。


 この「22本」という大記録は、プロ入り後に背番号「22」を選ぶ理由の一つになったのかもしれない。ちなみに法大時代も背番号「22」を着けており、村山の「11」と同じように不思議な縁がある数字なのだろう。
 田淵は大学通算97試合342打数94安打78打点22本塁打、打率.275でベストナインにも3回選出されている。

 1968(昭和43)年のドラフト会議。東京生まれの東京育ちで巨人ファンということは周知の事実だったし、田淵も「在京球団」希望を表明していたためタイガースからの指名はないだろうと思っていたようだ。


 しかし結果はタイガースが1位指名。当時は重複抽選のルールは無かったため即座に交渉権が確定してしまう。巨人は三角トレードを画策するなど懸命に田淵獲得に動いたがタイガースは譲らず、田淵は泣く泣くタイガースへ入団することになった。背番号は前年まで西村公一が着けていた「22」を継承する。

 ルーキーイヤーの1969(昭和44)年、タイガースはスター選手の田淵にファーストを守らせたかったようだ。キャッチャーではマスクで顔が隠れてしまうからだ。実際にファーストを守ることもあったが、捕手というポジションに魅力があり自負もあった田淵はレギュラー捕手の道を選んでいる。


 1年目は117試合に出場し359打数81安打56打点22本塁打、打率は.226と低かったが新人王に選出された。1年目のホームランが22本というのも、なにかこの数字に縁があったのかもしれない。滞空時間の長いきれいな放物線を描く田淵のホームランは芸術的と絶賛された。

 捕手としての能力も高く、座ったままで矢のようにセカンドへ送球できる強肩を生かし盗塁阻止率.534を記録したのも素晴らしい。

 しかし、2年目の1970(昭和45)年8月26日、田淵を恐ろしいアクシデントが襲った。甲子園での広島戦で投手はエースの外木場、その剛速球が左のこめかみを直撃して田淵は昏倒する。身体は痙攣し耳・鼻・口・目からまでドクドクと血が溢れ出して、周囲が「死んじゃうんじゃないか?」と思うほどの状態だったという。


 大阪厚生年金病院に救急搬送され、診断は「左側頭葉脳挫傷及び頭蓋内血腫」で全治3カ月という重症だったが命に別状なく、「脳波の異常や神経障害の症状も認められない」ということで、9月18日は報道陣の前に姿を現すまでに回復している。

 NPBはこの深刻な事故を受け、選手の保護のためヘルメットの耳当てを義務化する対応を取っている。

 また2017(平成29)年1月の産経新聞のオンライン記事では当時を振り返る次のような田淵自身の証言が掲載されていた。

三途の川って本当にあるんだ。事実オレが渡りかけた。葦(あし)の葉がいっぱい茂ってて水は膝ぐらい。とにかく向こう岸へ行かなきゃとザブザブ歩いてるんだ。そしたら後ろの方から『たぶち〜、たぶち〜』の声が聞こえてきた。向こうへ渡らなきゃいけないのにうるさいなぁ。だんだんその声が大きくなる。うるさい、誰や!と振り返ったら意識が戻ったんだ。だから、生死をさまよっている人には、枕元で一生懸命に名前を呼ぶ。これが大事だ

 実際にそういう臨死体験をしたのかもしれないし単に夢を見てただけかもしれないが、本人が語ったということだから非常に興味深い証言だろう。

 これも本人がのちに証言していることだが、死球による何らかの影響があったのか太りやすい体質に変わってしまったり、キャッチャーフライにすぐ反応できずボールを見失うことが増えたなど、振り返ってみると後遺症のようなものはあったようだ。その影響か、法政大時代は同じ三羽烏の山本浩二よりも俊足だったが、太ってくるにつれて鈍足になってしまっている。

 田淵はここまで89試合で前年にあと1本と迫る21本塁打を打っていたが、残りの約40試合を棒に振ることになった。


 3年目の1971(昭和46)年、死球によるケガの影響も感じさせないほどオープン戦は好調だったが、開幕前に風邪をこじらせ、急性腎炎を併発して入院する。この回復に思わぬ時間がかかり、公式戦出場にたどり着いたのは6月17日だった。最終的に80試合の出場にとどまって276打数63安打45打点18本塁打で打率.228。ケガや病気の影響に配慮して捕手としては1試合のみ、主にファーストや外野を守った。

こうしてみてくると3年目までの田淵は明らかに不完全燃焼だろう。本来の素質が現実のパフォーマンスとなって開花するのは4年目の1972(昭和47)年からだと言える。

この年は128試合に出場して初めて30本を超える34本塁打を放ち、打点82を記録している。それまでの3年間の合計が7個だった敬遠四球が、1年で14個となり、翌年からは24個、28個、25個と明らかに対戦相手が恐れる打者へと成長していく。
 
捕手としても江夏豊との「黄金バッテリー」で数々の名勝負を演出し、オールスターでは9連続奪三振を達成するなど、ONに対抗する人気を博している。


 1973(昭和48)年には37本塁打90打点、巨人の王貞治を脅かす存在になってきた。

 そして1974(昭和49)年、ついに40本の大台に乗せる45本塁打を記録、キングを獲得した王の49本に迫った。

 1975(昭和50)年は、新規加入したマイク・ラインバックとハル・ブリーデンに挟まれる形でクリンナップを形成し猛打をふるう。全130試合に出場し、426打数129安打90打点43本塁打で、打率は自身生涯唯一の3割越え(.303)というキャリアハイで念願のホームラン王に輝いた。


 しかし同年オフに江夏豊がトレードで南海ホークスへ放出されたことから球団に不信感を持つようになり、吉田義男監督ともそりが合わず、球団からは不協和音の原因のようにとらえられるようになっていく。

 新しいスター選手として掛布雅之が順調に成長する中、球団フロントは田淵の放出を検討してきたが、1978(昭和53)年に後藤次男監督でリーグ最下位になったのを機に、チームを一新するため田淵のトレードを決断する。

 このトレードでは、創設したばかりの西武ライオンズの根本監督がスター選手を欲したことで、交換要員に真弓昭信や若菜嘉晴という有望な若手選手を出してきたこともあり、利害が一致する形になった。

 11月14日の深夜に突然の呼び出しがあり田淵はホテル阪神へ。そして日付が変わって2時半ごろロビーに現れ、涙を流しながら記者たちにやり場のない怒りをぶちまけている。


「オレを西武に出すとはっきり言った。こんなタイガースだとは思わなかった。この問題が出て何日たった? その間、球団から何の説明もない」

「何が西武で勉強してこいだ。なぜ、タイガースで教育できないんだ。自分たちが無能だと認めているのと同じじゃないか」

「南海の広瀬は頼りないから預けられない。西本さんは1年限りだからダメ。その点、根本監督はいい監督だから君のためにもなるって。そんな言い方ってありますか? 広瀬さんや西本さんに失礼でしょう」

「ボロボロになってもタイガースで骨を埋めたかった。そのためにボクは10年前に大阪へきたんですよ」

 もちろん、「ミスター」とまで呼ばれ、このシーズンでは38本塁打89打点、打率.288の数字を残していた田淵の放出にファンからは強い批判もあった。しかし結果論になるが、7年後の日本一へ向けた第一歩となる重大な決断だったとも言えるだろう。

 10年間のタイガース時代に田淵が打ったホームランは320本。プロ生活474本のうち3分の2を打ったことになる。


 西武ライオンズに移った1979(昭和54)年は田淵が33歳を迎える年で、野球選手としてはピークを越えておりベテランの域になろうという時期だった。

この年は107試合で27本塁打69打点と不本意な成績に終わっており、田淵自身にも覇気がなく、新しいチームでの立ち位置にも戸惑う状態だったようだが、2年目の1980(昭和55)年にファーストに固定されると打撃が向上し、5年ぶりに40本を超える43本塁打を記録して貢献し、チームも前年の最下位から4位へと成績を上げている。

 1982(昭和57)年から広岡達郎が監督に就任すると、当初は管理野球に反発したが、田淵もチーム内での重鎮として役割を果たすようになり、日本ハムとのプレーオフを制して日本シリーズに出場、中日ドラゴンズを破って西武ライオンズになって4年目にして日本一に輝いている。


 1983(昭和58)年~1984(昭和59)年は出場が100試合に至らず、本人も限界を感じて引退している。もう1年頑張っていればタイガースとの日本シリーズという舞台に立てたかもしれなかったが、この時には予想もできなかった。

 それでも1983年には80試合で30本塁打を記録しているが、これは規定打席数未到達の選手による30本以上の本塁打を打った史上6人のうち唯一の日本人選手としての達成者であり、ホームランアーチストの面目躍如と言うべきだろう。

 1990(平成2)年、ダイエー・ホークスの監督に招聘されるが最下位。翌年から5位、4位と順位を上げたが3年で辞任している。

 2002(平成14)年、親友の星野仙一がタイガースの監督に就任すると「ブチ やるぞ!」と誘われ打撃コーチに就任。星野はトレード放出以来タイガースと縁が切れた状態の田淵を、なんとか古巣に復帰させてやりたいと常々思っていたようだ。


 「Wikipedia」には「うねり打法」で浜中おさむや関本健太郎を育てたという記述もあるが 星野監督の退任と同時に2年間で退任しており、どの程度の効果があったかはわからない。少なくとも浜中と関本は全く違うタイプの打者なので同じ理論で指導していたわけではないだろう。

 生涯成績は1739試合5881打数1532安打1135打点474本塁打、打率260であり、ホームランバッターとしては比較的三振は少なく1000三振に到達していない。本塁打は歴代11位だが、通算三振はNPBのホームページにある40傑にすら入っていないのである。
 2020年にはエキスパート表彰で野球殿堂入りした。
誰もが認める天性のアーチストであり、入団2年目のアクシデントさえなければ、少なくとも野村克也の650本に迫るくらいのホームランを打てたのではないか。そうであれば生涯をタイガースで全うできたとおもう。

まとめ

いやはやすごい選手だったんだねえ WEB上に映像がいくつも残ってるから見てみたよ ふわーと上がった瞬間に歓声が上がるんだけど なかなか落ちてこないから一度静寂の時間があるの すべての観客が上空を見上げてる そしてスタンドに落ちてきてもう一度大歓声になるのね こんな美しいホームラン見たことないよ

大谷さんのようにアッという間にスタンドインというのとは違って 時間が止まって余韻を残すようなホームラン だから芸術的って言われたのかな?

実際に近くで見ていた掛布さんもどこかの談話で​​​「田淵さんの凄さは狙ってホームランが打てること。一発で試合を決める。それが出来る打者だった」​​​というようなことを言ってるよ

​江夏さんは「田淵ほど、何もしない、何も考えないでホームランを打った男を知らない。オレがいままで見た野球選手のなかで、天才と呼べるのはただ一人、田淵幸一だけや」
 ​
​​​​​そして落合さんも​​俺の中ではね、プロ野球何百人、何千人っている中で、ただ一人なんですよ、ホームランバッターって認めてるのは。​田淵さんだけなんだよ。天性のホームランバッター。​あの打球の角度といい放物線といいね、あれは人にはまねできないものだから」​​​​​​​

これらがすべてを物語っているかもしれないね 凡人がいくら練習しても打てないような独特のホームランだったのよ

他に満塁ホームラン10本(歴代14位)とか サヨナラホームラン6本(歴代12位)というのもスター選手ならではの数字

 田淵さんの性格や明るさについては 先代が「これが一番よくわかるよ 知らない人は読んでみな」って言ってるよ 2代目も読んでみよう 下は映画版のポスターね


背番号22の5へ続く


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Last updated  2024年06月03日 16時39分13秒
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