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2024年08月26日
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背番号25(その2)

背番号25の第2回目です お久しぶり!

今回も3名を紹介です 戦後の復興期の選手たちはあまり名前が知られていない人が多いんだけど今回出てくる別当さんは別格ね

現役はそれほど長くなくて10シーズンなのよ それでも一流の成績を残してるわ それ以上にやめてからのほうが精力的に球界に貢献してるんだよね タイガースにいたのがわずか2年というのが残念だったね

「25」は投手や野手に関係なく着ける番号と言えるかな。では順次見ていきましょう

 

松本 太  投手

愛知県生まれで東邦商業(現東邦高校)の出身だが情報は極端に少ない。

戦後のプロ野球1946(昭和21)年からリーグ戦も再開するが、戦死した選手や負傷して野球ができなくなった選手も多く、まだ復員していない選手までいた時代だ。

興行的には再開にこぎつけたが各球団の選手不足は深刻な状況だったため、頭数合わせにプロのレベルにないような選手が入団したケースもあった。

松本もそのような経緯の中で1946年6月にタイガースへ入団している。記録では170センチ60キロ、左投げ左打ちの投手というプロフィールが残っている程度で詳細は一切わからない。

タイガースでは背番号「25」を付けたが1度の公式戦登板もなく、1947(昭和22)年のシーズン開始直後に東急フライヤーズへ移籍している。

東急では1試合にリリーフ登板して0勝1敗、1/3イニングを投げ、打者5人に対し被安打1、四球3、失点・自責点2、防御率18.00という記録だけが残る。

別当 薫  外野手

 タイガースのお膝元である兵庫県西宮市出身。旧制甲陽中学時代は投打に才能を発揮してエース兼4番打者として活躍。1937(昭和12)年には選抜、1938(昭和13)年には選抜と夏の選手権に出場している。当時すでに職業野球が始まっており、別当は地元タイガースのサード景浦にあこがれる野球少年だった。

 卒業後は慶應義塾大学へ進み、スラッガーとして通算35試合133打数47安打1本塁打で、打率.352の記録を残しており、1942(昭和17)年春季には打率.500で首位打者になっている。しかし戦争の激化によって学徒出陣命令が下り、6大学野球は中断となって1943(昭和18)年から終戦まで別当は海軍に身を置いた。

 戦後の1946(昭和21)年、東京6大学リーグが再開されると復帰し、主将として春季リーグ優勝に導く。同年大学を卒業すると地元に戻って一旦は家業の製材業に就くが、1947(昭和22)年に社会人チーム「全大阪」に入り野球を再開する。

 実力のあった別当はいきなりエース兼4番打者となって都市対抗本戦に出場、準決勝まで進んだが鐘紡高砂に敗れている。これを機にプロで野球をやってみたいと決断し、1948(昭和23)年、地元であり少年時代からファンだった大阪タイガースへ入団することになった。背番号「25」。


 1年目から別当の強打は猛威を振るう。シーズン公式戦が始まる前に実施されたトーナメント大会では8試合で7本塁打を放ち、3か所でのトーナメントすべてでタイガースを優勝に導いている。

 公式戦が始まっても高打率を維持していたが6月に左足を骨折し全治に3か月を要したため89試合の出場にとどまった。それでも348打数114安打57打点13本塁打で打率.328の数字は素晴らしく、規定打席に未到達ながらも外野手としてベストナインに選出されている。

 2年目の1949(昭和24)年は俗に「ラビットボール」と呼ばれた反発力の高いボールが採用されたことで各打者の打撃成績が軒並み上がったシーズンである。タイガースでは「ダイナマイト打線」の異名で呼ばれた強力なオーダーが人気を博し、その中心となったのが別当、藤村、土井垣のクリンナップ。


 藤村富美男が当時の日本記録を大きく塗り替える46本塁打でホームラン王に輝いたが、別当もこれに続く39本塁打を記録、土井垣武も自己最高の16本を打っている。

 1950(昭和25)年、プロ野球が2リーグに分裂。別当は若林忠志や土井垣と行動を共にしてパシフィック・リーグの毎日オリオンズへ移籍してしまった。

 移籍1年目の別当は打ちまくり、120試合で477打数160安打(最多安打)、ホームラン43本に105打点はいずれもタイトル獲得。打率も.335と三冠王にあと少しだった。しかも盗塁も34個とオールラウンドで活躍している。


 1951(昭和26)年以降は「飛ぶボール」が廃止されたこともあってか、ホームランが20本に届くことはなかった。

長距離砲と呼ばれる打者は中軸を打つようになるとあまり盗塁をしなくなるが、別当はよく走った。1952(昭和27)年に40盗塁、1954(昭和29)にも34盗塁を記録している(この年は選手兼任監督だったから驚きだ)。毎日では8年間プレーし、1957(昭和32)年のシーズンを最後に現役引退した。

現役通算10シーズンの成績は891試合3191打数965安打549打点155本塁打186盗塁318四球254三振、打率.302である。

 またタイガースで2試合、毎日で1試合投手として投げており、0勝1敗、12回で被安打11奪三振5自責点2、防御率1.50という記録も残っている。

 別当は引退後のほうが球界への貢献は高く、その経歴をすべて網羅しているとキリがないため以下に簡略化して記載する。

 

1954年~1959(昭和34)年 毎日オリオンズ監督

1960(昭和35)年 ロサンゼルス・ドジャースへ各員留学

1961(昭和36)年 大毎オリオンズ1軍打撃コーチ(兼球団取締役)

1962(昭和37)~1964(昭和39) 近鉄バファローズ監督


1967(昭和42)年 大洋ホエールズ ヘッドコーチ

1968(昭和43)年~1972(昭和47)年 大洋ホエールズ監督

1973(昭和48)年 広島東洋カープ監督


1977(昭和52)年~1979(昭和54)年 大洋ホエールズ監督


1980(昭和55)年~1981(昭和56)年 大洋球団代表兼常務取締役

1988(昭和63)年 野球殿堂入り

 

 実に4球団で通算19年も監督を務めている。この間の成績が2497試合1237勝1156敗104引分、勝率は.517。弱小球団の監督を引き受けることが多かったため通算1000勝以上の監督の中で唯一優勝がなかったのは惜しい。

 タイガースには2年間在籍しただけだが印象は強かった。もし2リーグ分裂時に移籍しなかったら、藤村と共に中軸を担っていたはずでタイガースの優勝回数はもっと増えていただろう。

 すらりとした長身で慶應ボーイ。都会的でダンディなイメージをまとい、監督としても紳士的だった。

川西勇治 投手

 大阪府出身で鳳中学から1945(昭和20)年に関西大学へ進むと1年生からエースになっている。1949(昭和24)年は主将となったが春季は故障して投げられなかった。秋季はエースとして復活しチームを優勝に導いている。

 1950(昭和25)年2月、大阪タイガースへ入団。背番号「25」を着けるが、一度の登板もないまま同年12月23日に解雇されている。

 詳しいことは全くわからないが、大学4年時に痛めた肩の状態が悪く、元々は速球派で球が重かったようだが、プロでは超緩球投手という評価だったらしい。

 退団後は社会人の全東洋高圧でプレーし、1952(昭和27)年の産業別選手権に出場している。

 2005年9月24日に80歳で逝去。

まとめ

 松本さんが足掛け2年 別当さんが2年 川西さんが1年 とても短いね 松本さんや川西さんは資料も少ないし写真は見つかりません 松本さんは1試合しか投げてないし川西さんなんて一度も登板してないから写真がないのも当然だよなあ

戦後はこういうことが多かったのよね 別当さんは毎日の引き抜きで出て行ったというのが真相のようで 藤村さんとの不仲説も流れたりしたようだけど のちにお二人とも否定されてるから そういうドロドロしたものじゃなかったんだろうね 特に別当さんに限ってはダンディさに反することはしないとおもうよ

戦後すぐのころの背番号「25」はあまりいい印象ではないんだけど 次回出てくる山本哲也さんは現役でも指導者でも活躍してるよ

25の3に続く

 





 

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Last updated  2024年08月28日 23時39分06秒
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