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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.05.14
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カテゴリ:正岡子規

 
 正岡子規の母親は、八重といい、松山藩儒者・大原観山の長女にあたります。観山は、江戸昌平黌舎長、松山藩校・明教館教授を歴任、14代松山藩主・定昭の側用達となって幕末の藩を支え、晩年は私塾を開いて子どもたちの教育に専念しました。
 母方の大原家は、兄弟姉妹の多い家系でした。長男は早く亡くなりましたが、二男の恒徳は銀行家。三男の恒忠は観山の祖母の加藤家を継ぎ、のちに外交官となります。四男の恒元は岡村姓となり、俳句に興味を持ちました。
 二女の十重は官吏をしていた藤野漸に嫁ぎ、藤野潔(古白)を産みました。三女の三重は銀行員・岸重崔に嫁いでいます。
 観山の妻の出里である歌原家の良(はじめ・三並家を継ぐ)は、子規より二歳年上で、子規とともに学び、遊びました。
 明治2年(一八六九)、正岡家は温泉郡湊町新町(現在の湊町四丁目一番地)、中ノ川沿いにある約百八十坪の屋敷に移りました。この家の近くには高浜虚子の生家である池内家、従兄半の三並良の歌原家、母の実家の大原家、河東碧梧桐の生家など、後の交友につながる人たちの家が並んでいました。
 

 
 明治5年(1872)1月24日、父・常尚が隠居を決めたため、子規は幼くして正岡家当主となります。その年の3月7日、父は四十歳の若さで死去しました。『筆まかせ』の「父」には、毎日一升の酒を傾ける酒豪で、死の際には「皮膚尽く黒色」だったといいますから、肝硬変かもしれません。
 明治8(1875)年、松山藩では士族の家禄奉還が行われ、正岡家には1200円が与えられ、子規の後見人である大原恒徳によって管理されました。母の八重は、裁縫を教えることでわずかな金を得、つつましく暮らしながら子規を育てました。
  明治25(1892)年、日本新聞に就職した子規は、ふるさとの母と妹を東京に迎えます。妹・律は「私ども女二人は、月に五円あれば食べて行かれました。じゃ、二十五円あれば三人で暮らせる、というのが私どもの東京へ移る話の初めでした(『家庭より観たる子規』)」と語っています。
 
 子規には、「母」について書かれた文章はあまり多くありませんが、俳句は少なからず残されています。
 
  母人は江戸はじめての春日哉(明治26)
  父母います人たれたれそ花の春(明治27)
  行く年を母すこやかに我病めり(明治29)
  やぶ入の母待ち居るよ門の外(明治30)
  母方は善き家柄や雛祭(明治32)
  故郷や母がいまさば蓬餅(明治34)
  母ト二人イモウトヲ待ツ夜寒カナ(明治34)
  皸(あかぎれ)や母の看護の二十年(明治34)
  珍らしきみかむや母に參らする(明治35)
 
 これらの句には、母に対する子規の温かい愛情が溢れています。
 
 明治34(1901)年の『仰臥漫録』には「母も妹も我枕元にて裁縫などす。三人にて松山の話ことに長町の店家の沿革話いと面白かりき(9月2日)」「母広徳寺前にてケシ、セキチクなどの種五、六袋買打て帰らる(セキチクは余の所望なり)。おみやげ焼栗一袋(10個入2銭)は上野広小路六阿弥陀へ参られし帰り門前の露店にて求められたりと(9月27日)」など、正岡家の温かい家庭の様子が綴られています。
 同じ年の『病牀六尺』には「一家の団欒ということは、普通に食事の時を利用してやるのが簡便な法であるが、それさえも行われておらぬ家庭が少なくは無い。まず食事に一家の者が一所に集まる。食事をしながら雑談もする。食事を終える。また雑談をする。これだけのことができれば家庭はいつまでも平和に、どこまでも愉快であるのである(七月十八日)」とあります。
 
 では、子規は母親への感謝に、何かプレゼントを送ったのでしょうか。
 

 
 この年の10月27日、子規は誕生日(旧暦9月17日)を一日繰り上げて祝うため、根岸にある料理屋の「岡野」から料理二人前を昼食に取り寄せ、母の八重、妹の律、そして子規の三人で五品の会席膳を食べました。
 このことを記した『仰臥漫録』には、「料理屋の料理ほど千篇一律でうまくないものはないと世上の人はいう。されど病床にありてさしみばかり食うている余にはその料理が珍しくもありうまくもある。平生台所の隅で香の物ばかり食うている母や妹には更に珍しくもあり更にうまくもあるのだ」という文が続きます。
 この料理には、子規のために献身的に尽くしてはいるものの、台所の隅で香の物ばかり食べている母親と妹をねぎらう意味が込められていました。





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最終更新日  2017.05.14 05:21:35
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