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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.01.20
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石が大学予備門に入った頃は、神田猿楽町の下宿に中村是公、橋本左五郎、佐藤友熊などといっしょに住んでいました。その中でも、漱石は中村(当時は柴野)是公と気が合いました。明治19年、漱石と是公は江東義塾の教師アルバイトを始めます。そして、塾の寄宿舎に住みこみました。『永日小品』の「変化」には「吹き曝しの食堂で、下駄を穿いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏が少し浮いて、肉の香かが箸に絡まって来るくらいなところであった」とあり、五円の月給から予備門の月謝二十五銭と二円の食料を引き、あまった金で、蕎麦や汁粉や寿司を食い廻りました。
 

 
 反対に龍口了信に対しては、あまりいい感情をもっていませんでした。龍口了信は、中村是公の同郷の広島県生まれで、勝順寺という寺の息子でした。東京帝国大学国史科を卒業し、広島の中学校長を歴任した後、本派本願寺文学寮(現龍谷大学)の教授などをつとめたのち、政治家に転身します。漱石の小説「こゝろ」の「K」のモデルの一人であるともいわれます。(是公もモデルの一人です)
 では、なぜ龍口のことが好きにならなかったかというと、その食事方法にありました。太田達人の『予備門時代の漱石』には「ある時夏目君が『彼奴は豚汁の中へ餡こを入れて煮て喰わせる、あんな汚ならしい真似をされては敵はない』というのです」とあり、無茶苦茶な食べ物に対して怒りを覚えていたのでした。太田も続けて「夏目君がどこか斉然(きちん)とした所のあるのに対して、龍口了信は実際だらしのない男でした。元来広島県の生れで、中村是公と竹馬の友であった処から、吾々の仲間へも入ってきたのですが、酒が好きで、大学の寄宿舎では一番隅の部屋にいましたのでスチームの鉄管からちびちび湯気が凝って垂れる、それを金盥(かなだらい)に受けて置いて、その中で薬瓶に詰めた酒の燗をしては飲んでいました」と綴っています。
 是公との交際は、漱石が鬼籍に入るまで続きました。大正5年12月9日、漱石き徳利電報を受け取った是公は、午後一時過ぎに病院に駆けつけました。漱石は目をつぶったまま「中村だれ?」時き、妻の鏡子が「中村是公さんですよ」というと、「ああ、よしよし」と漱石は答えました。
 
 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調べをした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。その時窓の真下の家うちの、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立きわだって美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下みおろしていた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。
 女の顔は今は全く忘れてしまった。ただ大工か何かの娘らしかったという感じだけが残っている。無論長屋住居の貧しい暮しをしていたものの子である。我ら二人の寝起きする所も、屋根に一枚の瓦さえ見る事のできない古長屋の一部であった。下には学僕(がくぼく)と幹事を混ぜて十人ばかり寄宿していた。そうして吹き曝しの食堂で、下駄を穿いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏が少し浮いて、肉の香かが箸に絡まって来るくらいなところであった。それで塾生は幹事が狡猾で、旨いものを食わせなくっていかんとしきりに不平をこぼしていた。
 中村と自分はこの私塾の教師であった。二人とも月給を五円ずつ貰って、日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。幾何の説明をやる時に、どうしてもいっしょになるべき線が、いっしょにならないで困った事がある。ところが込こみいった図を、太い線で書いているうちに、その線が二つ、黒板の上で重なり合っていっしょになってくれたのは嬉しかった。
 二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。その時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちゃごちゃに攪き交ぜて、そのうちから二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭若干(そくばく)を引いて、あまる金を懐に入れて、蕎麦や汁粉や寿司を食い廻って歩いた。共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。
 予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。しかしその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今ではいっこう覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。
 中村が端艇(ボート)競争のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれて、その金で書籍を買って、その書籍へある教授が、これこれの記念に贈ると云う文句を書き添えた事がある。中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好きなものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの論文と沙翁のハムレットを買ってくれた。その本はいまだに持っている。自分はその時始めてハムレットと云うものを読んで見た。ちっとも分らなかった。
 学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢わなかったのが、偶然倫敦(ロンドン)の真中でまたぴたりと出喰わした。ちょうど七年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。中村も以前と異かわって、貴様の読んでいる西洋の小説には美人が出て来るかなどとは聞かなかった。かえって向うから西洋の美人の話をいろいろした。
 日本へ帰ってからまた逢わなくなった。すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜楽まで来いといって来た。正午までにという注文だのに、時計はもう十一時過である。そうしてその日に限って北風が非常に強く吹いていた。外へ出ると、帽子も車も吹き飛ばされそうな勢いである。自分はその日の午後に是非片づけなくてはならない用事を控えていた。妻に電話を懸けさせて、明日じゃ都合が悪いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、こっちも忙しいから……と云うところで、電話が切れてしまった。いくら、どうしても懸らない。おおかた風のせいでしょうと、妻が寒い顔をして帰って来た。それでとうとう逢わずにしまった。
 昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかつて一頁も読んだ事はなかろう。(永日小品 変化)





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最終更新日  2018.01.20 05:08:09
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