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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.04.29
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カテゴリ:夏目漱石

 
『吾輩は猫である』に、迷亭が失恋した体験談として「蛇飯」の話をするところがあります。
 迷亭が、越後から会津に旅する途中で峠の一軒家に泊めてもらうと、そこには美しい娘と老夫妻が住んでいました。そして、その家では「蛇飯」を食わせてやろうというのです。迷亭は「その自分の僕は随分悪もの食いの体調で、蝗(イナゴ)、なめくじ、赤蛙などは食い厭ていたくらいなところだから、蛇飯は乙だ」と思い、蛇飯をつくるのをみていると、「鍋の中へ放り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞がったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味の悪るい」と細君しきりに怖がっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよといううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中蛇の面だらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とかいうと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くとともに長いのが面白いように抜け出してくる(吾輩は猫である 6)」というのです。
 
 これがなぜ失恋話かというと、その家の美しい娘は、蛇の祟りで丸坊主になっていて、百年の恋も冷めてしまったというのです。
『吾輩は猫である』の蛇飯のつくり方が、泉鏡花の『蛇くひ』に登場する「長虫(ながむし)の茹初(ゆでたて)」によく似ています。飯の中から頭を出した蛇の骨を抜き、身を鍋の中に残すという調理方法です。漱石の明治37・38年の「断片」には「パナマ・ハサミ」と「候補者 細君」に挟まれて「蛇メシ」と書かれています。

 以下に『吾輩は猫である』と『蛇くひ』を記しますので、その食べ方を比べてください。
「這入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏が切ってあって、その周りに娘と娘の爺さんと婆さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹が御減りでしょうといいますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯でも炊たいて上げようというんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「先生しっかりして聴くことは聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理窟にばかり拘泥してはいられないからね。鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」といったら寒月君は「なるほど」といったきりまた謹聴の態度に復した。
「その時分の僕は随分悪もの食いの隊長で、蝗、なめくじ、赤蛙などは食い厭ていたくらいなところだから、蛇飯は乙だ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋の蓋を見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、旨い工夫をしたものだ、田舎にしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大きな笊を小脇に抱い込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏の傍へ置いたから、その中を覗いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろの捲くらをやって塊っていましたね」「もうそんな御話しは廃しになさいよ。厭らしい」と細君は眉に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作につかまえて、いきなり鍋の中へ放り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞がったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味の悪るい」と細君しきりに怖がっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよといううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中蛇の面だらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とかいうと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くとともに長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くのこと骨抜だ、器用なことをやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子でもって飯と肉を矢鱈に掻き交まぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦い顔をして「もう廃しになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんなことをおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」(吾輩は猫である 6)
 

 
 渠等(かれら)は己を拒みたる者の店前に集まり、あるいは戸口に立並び、御繁昌の旦那吝(けち)にして食を与えず、餓て食うものの何なるかを見よ、と叫びて、袂を深れば畝々と這出づる蛇(くちなわ)を掴みて、引断りては舌鼓して咀嚼し、畳ともいわず、敷居ともいわず、吐出しては舐る態は、ちらと見るだに嘔吐を催し、心弱き婦女子は後三日の食を廃して、病を得えざるは寡し。
 およそ幾百戸の富家、豪商、一度ずつ、この復讐に遭ざるはなかりし。渠等の無頼なる幾度もこの挙動を繰返えすに憚かる者ならねど、衆(ひと)はその乞うが隨意ままに若干の物品を投じて、その悪戲を演ぜざらむことを謝するを以て、蛇食の芸は暫時休憩を呟きぬ。
……中略……
 最も饗膳なりとて珍重するは、長虫(ながむし)の茹初(ゆでたて)なり。蛇の料理塩梅を潜かに見たる人の語りけるは、(應)が常住の居所なる、屋根なき褥(しとね)なき郷屋敷田畝の真中に、銅(あかがね)にて鋳(い)たる鼎(かなえ)を裾すえ、先ず河水を汲み入るること八分目余、用意了れば直に走りて、一本榎の洞より数十条の蛇を捕え来たり、投込むと同時に目の緻密なる笊を蓋い、上にはひしと大石を置き、枯草を燻べて、下より爆発と火を焚けば、長虫は苦悶に堪たえずのたうちまわり、遁れ出んと吐き出す纖舌(せんぜつ)炎より紅く、笊の目より突出す頭を握り持ちてぐっと引けば、背骨は頭に附きたるまま、外へ抜出るを棄てて、屍傍へに堆く、湯の中に煮えたる肉をむしゃむしゃ喰える様は、身の毛も戦慄ばかりなりと。(泉鏡花 蛇くひ)
 
 では、泉鏡花が、この蛇鍋を食べたことがあるかといえば、そんなことは絶対にありません。鏡花は、極度のばい菌恐怖症で、常にアルコール面の入った綿入れを携帯していました。どんなものでも、沸騰させてばい菌のない状態にしないと、食事をとりませんでした。刺身などは食べず、蛇なんてトンでもない。辰野隆は鏡花が「チョコレートは蛇の味がするから嫌だ」と語ったのを聞いています。鏡花は、現実の食事を恐れ、作品にこうした「悪食」の描写を登場させることで、創造あるいは妄想の幅をさらに広げようとしていたのかもしれません。
『吾輩は猫である』の「鏡花の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」というのは、鏡花の『銀短冊(明治38)』です。
 漱石は、談話筆記『批評家の立場』で「鏡花君の『銀短冊』は草双紙時代の思想と明治時代の思想とを綴ぎはぎしたようだ。夢幻ならば夢幻で面白い。明治の空気を呼吸したものなら、また其空気を写したので面白い。唯綴ぎはぎものでは纏伝興趣が起らない。然し確かに天才だ。一句々々の妙はいうべからざるものがある。古沼の飽くまで錆にうりたるものだと見たものが、鯰の群で蠢動めいているなどは余程の奇想だ。若しこの人が解脱したなら、恐らく天下一品だろう」と語っています。また、明治38(1905)年4月2日の野村伝四への書簡では「鏡花の銀短冊というのを読んだ。不自然を極め、ヒネくれを尽し、執拗の天才をのこりなく発揮している。鏡花が解脱すれば日本一の文学者であるに惜しいものだ。文章も警句が非常に多いと同時凝り過ぎた。変梃な一風のハイカラがった所が非常に多い。玉だらけ庇だらけな文章だ。僕などのいうことは門外漢の言葉として彼等は首肯しないだろう。然し僕はあの人々の才が悪い方へ向いているのを非常に残念に思うばかりで一寸君に洩らすのさ」と書いています。また、漱石は「ノート」の「天才」の項で「鏡花は妖怪的天才なり。天才は人の成し能わざる所のものをなす」とメモしています。
 
 鏡花は、追悼文の『夏目さん』で「はじめて夏目さんにお目にかかったのは、そうですね、もう七、八年になります。私がまだ土手三番町にいた時ですから、明治四十何年、と御覧なさい。すぐにその年をいうのにも差支えるほど用意のないところで、不整なことです。御ゆるしを願います。実はね、膝組で少しお願いしたいことがあって、それが月末の件ですよ。顔を見て笑っちゃ行けません。この方は大切なことでさあね。急いだもんですから、前へ手紙も差し上げないで、いきなり南町へ駆けつけたもんです。……中略……大分お忙しそうだったのに、ゆっくり談話が出来ましてね。ゆっくりといって、江戸児だから長いこと、饒舌るには及びません、半分いえば分かってくれる、てきぱきしたもので。それに、顔を見ると、この方に体裁も、つくろいも、かけひきも、そのかけひきも人にさせやしますまい。そこが偉い、親みのうちに、おのずから、品があって、遠処はないまでも、礼は失わせない。そしてね、相対すると、まるで暑さを忘れましたっけ、涼しい、潔い方でした。……中略……私は不断から、夏目さんの、あの夏目金之助という、字と、字の形と、姿と、音と音の響とが、だいすきだったんです、夏目さん、金之助さん。失礼だが、金さん。どうしても岡惚れをさせられるじゃありませんか」と書いています。
 
 明治42(1909)年8月27日の漱石の日記には「朝泉鏡花来。月末で脱稿せる六十回ものを朝日へ周旋してくれという。池辺(朝日新聞主筆)不在故玄耳へ手紙をつけてやる」とあり、翌日には「泉鏡花来訪。昨日の礼をいう」と書かれています。月末の支払いに困った鏡花は、朝日新聞での『白鷺』連載を願い、原稿を漱石のところに持ち込んだのでした。





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最終更新日  2018.04.29 09:26:19
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