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カテゴリ:夏目漱石
明治43年12月31日に、漱石は森鷗外に礼状をしたためました。 新年の御慶目出度申納候。修善寺にて病気の節はわざわざ御見舞をかたじけのうし、拝謝の至。帰京後はとくに貴書を給わり、これまた深く御礼申上候。参照の上、親しく御高話も承るべくの処、未だに在院中にて諸事不如意。今度出版の拙著、森田氏に託し左右に呈し候。御蔵書中に御加え被下候わば幸甚に候。 この年に、漱石が修善寺で倒れた時、鷗外は部下に命じて漱石の見舞いに赴かせ、見舞いの中に「漱石先生に捧げ上げる」と、小説集『涓滴』を送っていたのでした。漱石は、明治44年1月1日に刊行される『門』を森田草平に届けさせるように手配したのでした。 漱石と鷗外が出会ったのは、数回しかありません。初めて会ったのは明治29年1月3日に子規庵で行われた新年句会で、当時の鷗外は『舞姫』などを発表している軍医で、漱石は中根鏡子との見合いのために上京していた中学教師でした。 次に会ったのは、明治40年11月25日に催行された上田敏の留学壮行会で、50人ほど集まった中のふたりでした。このころの漱石は、朝日新聞に入社して『虞美人草』の連載を終えた頃でした。一方の鷗外は、陸軍軍医総監に昇格したばかりでした。以後、明治41年4月18日の第三回青楊会、明治42年1月19日の文部大臣主催の文芸懇談会に二人は出席しています。 これ以降、ふたりは会う機会がないのですが、互いに著書を送りあっています。 鷗外は、明治43年7月号の「新潮」に『夏目漱石論』を掲載しています。質問が下世話なものにもかかわらず、内容は好意的なものです。 一、今日の地位に至れる径路 政略というようなものがあるかどうだか知らない。漱石君が今の地位は、彼の地位としては、低きに過ぎても高きに過ぎないことは明白である。然れば今の地位に漱石君がすわるには、何の政策を弄するにも及ばなかったと信ずる。 二、社交上の漱石 二度ばかり逢ったばかりであるが、立派な紳士であると思う。 三、門下生に対する態度 門下生というような人物で僕の知ているのは、森田草平君一人である。師弟の間は情誼が極めて濃厚であると思う。物集氏とかの二女史に対して薄いとかなんとかいうものがあるようだが、その二女史はどんな人か知らない。随って何ともいわれない。 四、貨殖に汲汲たりとは真乎 漱石君の家を訪問したこともなく、またそれについて人の話を聞いたこともない。貨殖なんといった処で、余り金持になっていそうには思われない。 五、家庭の主人としての漱石 前条の通りの次第だから、その家庭をも知らない。 六、党派的野心ありや 党派という程のものがあるかどうだか知らない。前にいった草平君の間柄だけなら、党派などと大袈裟にいうべきではあるまい。 七、朝日新聞に拠れる態度 朝日新聞の文芸欄にはいかにも一種の決まった調子がある。その調子は党派的態度とも言えば言われよう。スバルや三田文学がそろそろ退治られそうな模様である。しかしそれはこの新聞には限らない。生存競争が生物学上の自然の現象なら、これも自然の現象であろう。 八、創作家としての伎倆 少し読んだばかりである。しかし立派な伎倆だと認める。 九、創作に現れたる人生観 もっと沢山読まなくては判断がしにくい。 十、その長所と短所 今まで読んだところでは長所が沢山目に附いて、短所という程のものは目に附かない。 では、漱石の鷗外に対する評価では、大正4年10月11日の「大阪朝日新聞」に掲載された『文壇のこのごろ』に記されています。徳田秋声、武者小路実篤、志賀直哉、有馬生馬、北村清六などの作品についての言及があり、鷗外作品への評価は最後に登場します。 森鷗外氏のこのごろの作物、たとえば『栗山大膳』とか『堺事件』とかいうような、昔の歴史を取り扱ったものを、世間では高等講談などといって悪くいうが、わたくしはおもしろいものだ と考える。物そのものがおもしろいのみならず、目先が変わっているだけでもおもしろい。高等講談などといって、一笑に付すベきものではない。もっとも、高等の文字が付いているから、必ずしも冷笑の意味ではないというなら、それでもよい。 漱石も鷗外も、互いの作品を評価していたことがわかります。漱石と鷗外が最後にまみえるのは、大正5年12月12日のことです。場所は青山斎場で、この時、漱石は鬼籍の人となっていました。
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最終更新日
2018.12.31 00:10:08
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