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カテゴリ:夏目漱石
漱石がロンドンから帰ってきた翌年の明治37年、漱石は門人の野間真綱に「恭賀新年」との賀状を送っています。1月3日には橋本貢に「人の上春を写すや絵そら言」という俳句とともに自筆の絵葉書を送りました。 明治38年には、野間真綱に2通の賀状を送り、一つには「今日はなぜ上らずに帰った。伝四がきて雑煮を食わせろというから一緒に晩餐を食った。君も雑煮を食いにきたまえ。なるべく晩食の方が落ち着いてよい」と、雑煮の誘いを送りました。翌日は、寺田寅彦にも雑煮を誘っています。2日には、田口俊一と橋本貢に自筆の絵葉書を送っています。 明治40年には、野間真綱、野村伝四、高浜虚子、寺田寅彦に、3日に行われる夕食の誘いを送っています。このご馳走を周旋したのは松根東洋城でした。 明治42年の馬場胡蝶宛のハガキには「小生怠けてどこへも年頭に参らず、賀状も返事を出すだけに留めおり候」と書いています。 明治43年の賀状には「恭賀新年」。 明治44年の賀状は印刷で「恭賀新年 昨年来度々御見舞に預り難有御礼申上候。尚目下引続き入院中につき万事欠礼仕候」と送りました。 明治45年の賀状は「恭賀新年」と名前、住所のみ。大正3年、4年、5年も同一のフォーマットです。 これらのハガキを見ると、漱石か年次の挨拶を面倒に思っていたことがわかります。
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最終更新日
2019.01.04 00:10:05
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