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カテゴリ:正岡子規
牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉(明治29) 梨腹モ牡丹餅腹モ彼岸カナ(明治34) 餅ノ名ヤ秋ノ彼岸ハ萩ニコソ(明治34) 牡丹餅ノ使行キ逢フ彼岸カナ(明治35) 子規の明治32年の俳句に「林檎くふて牡丹の前に死なん哉」いうのがあります。5月9日、福田把栗と寒川鼠骨が牡丹の鉢を持って子規の見舞に来ました。そこで、子規はこの日より「牡丹句録」を記すことにしたのです。この句はその中にしたためられています。 五月九日 頃来体温不調。昼夜焦熱地獄にあり。この日朝、把栗鼠骨二子、牡丹の鉢を抱えて来る。札に薄氷と書けり。薄紅にして大輪也。晩に虚子西洋料理を携えて至る。昼夜二度服薬。発汗疲労甚しく眠安からず。 薄様に花包みある牡丹哉 人力に乗せて牡丹のゆらぎ哉 鉢植の牡丹もらひし病哉 一輪の牡丹かがやく病間哉 あらたまる病の床のぼたん哉 改宗の額の下なり牡たん鉢 蓑笠をかけし古家の牡丹哉 この夜始めて時鳥を聴く 床の間の牡丹のやミや郭公(ほととぎす) この日叔父来給う 五月十日 朝浣腸し了りて少し眠る。心地僅かによし。 余の余の重患はいつも五月なれば 厄月の庭に咲いたる牡丹かな あまりの苦しさを思うに、何んのためにながらえてあるらん、死なんか死なんか、さらば薬を仰いで死なんと思うに、今の苦しみに比ぶれば、我が命つゆ惜からず。いで一生の晴れた死別会というを催すも興あらむ。試にいわば、日を限りて誰彼にその旨を通じ、参会者には香奠の代りに花または菓を携え来ることを命じ、やがて皆集りたる時、各々死別の句をよみ、我は思うままに菓したたかに食い尽して腸に充つるを期とし、そのまま花と葉の山の中に快く薬を飲んで、すやすやと永き眠りに就くは、如何に嬉しかるべき。 林檎食ふて牡丹の前に死なんかな 牡丹ちる病の床の静かさよ 二片散って牡丹の形かハりけり 瓢亭朝来る、左衛門午後来る、不折夕来、表紙牡丹の画成る。 五月十一日 朝羯翁丁軒来る。牡丹は今朝尽く散りおりたり。 牡丹散て芭蕉の像そ残りける 大なる花片一つ蔵めおかんと思いしに子供来たりて早く取去了んぬ。 今日は夜に入りて熱卅九度四分也。一昨日昨日より高けれど、きのうまで一日に二度ずつ高まりし熱、今日は一度に復したり。 三日にして牡丹散りたる句録かな(牡丹句録) 子規は、死ぬ時には腹いっぱい食べて死にたいと夢想していました。果物や菓子を好きなだけ食べ、花に囲まれて死ぬのです。「林檎食ふて牡丹の前に死なんかな」は、そんな子規の強い思いがあらわれています 子規は毎年五月になると病状が重くなると思っていました。そのため、5月には自分の死が訪れると信じていたのでした。自らの死が訪れる記録を『牡丹句録』として残しておこうと考えたのかもしれません。この中には中村不折の絵も収められました。しかし、11日になると体調が回復し、その目論見はもろくも崩れてしまったのでした。その日、牡丹の花は、子規の命の代わりに花びらを散らしています。 ※5月は厄月はこちら
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最終更新日
2019.03.21 19:00:08
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