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カテゴリ:夏目漱石
「リチネはお飲みでしたろうね」 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。 「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」 昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零(ゼロ)であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。 「じゃもう一度浣腸しましょう」 浣腸の結果も充分でなかった。(明暗 42) 彼は道々今朝買い忘れたリチネのことを思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計画でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違すに切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻きむしって、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊っている一群の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。(明暗 21) 津田は叔母の手前重ねて悪口をいう勇気もなかった。黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。 「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」 今日まで病気という病気をした例のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。(明暗 28) 漱石の未完に終わった小説『明暗』は、主人公・津田が重度の痔瘻だと診断され、その手術と術後が、細かく描写されています。 津田は、この痔が結核性のものかどうかを心配していて、医師の結核性でないとの診断で安心しますが、その後に根本的な治療が必要だと説得され、痔の切開手術を受けます。 この痔の手術は、漱石が明治45年9月26日、神田錦町にあった佐藤医院の医師・佐藤恒祐の手により執刀されました。 この辺りの事情は漱石の日記に詳しく書かれています。 9月26日 ○正午痔癆(瘻)の切開。前の日は朝パンと玉子紅茶。昼は日本橋仲通りから八丁堀茅場丁須田丁から今川小路迄歩いて風月堂で紅茶と生菓子。晩は麦飯一膳。四時にリチネを飲んで七時に晩食を食うたが一向下痢する景色なし、翌日あさ普通の如く便通あり。十時頃錦町一丁目十佐藤医院にきて浣腸。やはり大した便通なし。十二時消毒して手術にかかる。コカインだけにてやる。二十分ばかりかかる。瘢痕が存外かたいから出血の恐れがあるというので二階に寢いる。括約筋を三分一切る。それがちぢむ時、妙に痛む。神経作用と思う。縮むなというideaが頭に萌(きざ)すとどう我慢しても縮む。まぎれていれば何でもなし。 部屋から柳が一本見える。風に揺られて枝のさきがうごいている。前の家で謡をしきりに謡う。赤煉瓦の倉の壁が見える。床に米華という人の竹がある。北窓間友とかいてある。 夜、新内の流しがくる。夜番が拍子木を鳴らしてくる。えい子、あい子来る。 9月27日 ○食事パン半斤の二分一。鶏卵二。ソップ一合。牛乳は断わる。岡田がくる。藤村の食後(=短編小説集)と澪(=長田幹彦の短編小説集)というものを買って来てもらう。晩に東と妻がくる。 9月28日 ○尻の穴の方のガーゼを取る。今晩帰ってもいいといったが、面倒だから一週間いることにする。 といった経緯で漱石は痔の手術を経験し、10月2日に退院。それを『明暗』に生かしたのでした。 『明暗』と日記にでてくる「リチネ」とは、「ひまし油」のことです。「ひまし油」は、トウダイグサ科のトウゴマの種子から採取する植物油の一種です。ひまし油の原料となるトウゴマは、9世紀頃の日本に中国を経由して渡来しましたが、厚い皮が種子を覆っているためにあまり使われず、その粘性を利用して鬢付け油などに使われるくらいでした。 海外では古くから下剤や傷薬として使われており、明治期になって下剤や便秘薬として利用されるようになりました。ただ、漱石にはあまり効かなかったようで、「四時にリチネを飲んで七時に晩食を食うたが一向下痢する景色なし、翌日あさ普通の如く便通あり」と日記に書かれています。
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この記事に掲載してある「頓服薬」の写真は、歴史的なものでしょうか?
実際に漱石が用いたものであるとか? 本物の場合、出典はどこから? 非常に興味あります。 (2022.01.07 12:02:06)
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