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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.07.16
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カテゴリ:子規と漱石
   小娘の花の使の文箱かな  子規(明治28)
   麥蒔や色の黒キは娘なり  子規(明治28)
   愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石(明治28)
 
 漱石は、明治28年5月、二番町にあった上野義方に寓居し、「愚陀仏庵」と名付けました。子規は病気療養のため、松山に帰郷し、漱石のところに厄介になることを決めました。
「愚陀仏庵」は、現在の大街道の西、二番町と三番町をつなぐ横丁にあって、現在はパーキングになっています。
 
 高浜虚子の『漱石氏と私』には「明治二十九(本当は28)年の夏に子規居士が従軍中咯血をして神戸、須磨と転々療養をした揚句松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって、漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった」と書かれています。
 柳原極堂の『友人子規』には、さらに詳しく「上野の家は今もなお昔のまま現存しておる(=昭和18年当時)。二番町と三番町とをつなぐ横町が四本ある。そのもっとも東の横町を二番町の本通から三番町の方へ曲って少し行くと、東側に更科蕎麦と看板をかけた蕎麦屋がある。そのすぐ北隣で西向きに繻子窓格子戸造りの軒端の低い相当古びた平家がある。それが当時の上野の家で、今は持ち主が変わっている。その蕎麦屋は前には無かったもので、漱石時代には大島梅屋という松風会員がそこに住んでいた。その梅屋は昭和八年物故した。何から誤伝されたか知らぬが、漱石時代の上野の家は今は蕎麦屋になっている、子規漱石二文豪同居の遺跡は、その蕎麦屋の奥に在るのだというような風説が一時立って、態々蕎麦屋へ尋ねて来た旅人などがあったと間いたが、怪しからんことだ」と、松風会員の梅屋が流したと考えられる風説に文句をしたためています。
 また「上野義方という人は旧松山藩の士族で当時六十幾歳七十にもなっていたろうか、背のスラリとした色つやの良い上品な老人で、頭は紡麗に剃り落していた。松山の富豪「米九」の支記人を勤めておるのだと聞いていた。その配偶の老嫗と中年の婦人とその婦人の子でお君さんと呼ばるる白い十四五歳の娘と都合四人家内で、炊事など家内の世話はもっぱらその中年婦人が任じていたように見うけた。主人義方は隠居で長男の某が別に家を持っているというようなことも間いたが、その人は一度も見たように思わぬ。右の中年婦人は義方の長女で、どこかへ嫁していたのが離縁になったか、夫に死なれたかして親里に戻っているのだという説もあったが、その真偽は知らぬ。これら上野家についての話は多く梅屋辺から伝わるものらしかった」と書かれています。
 
 続けて、極堂は「子規が上野に漱石と同居して後約一ヶ月もして上野家に、も一人寄宿者が殖えた。十二三歳の少女で松山高等小学の生徒だということであった。義方の二女が松山の士族宮本某に嫁し、その一家は今西條町近くの某鉱山にいるが、その娘は学校の都合で松山に居残り、祖父の家に寄宿しているのである。夏休中を父母の所に遊んで今松山に帰ってきたのであるということも、梅屋から聞かされたと覚えている。折々は伯母とともに子規の室に来て俳席を眺めたりしていた。前から見てい娘は色の白いボッテリとした愛らしい顔で、今度来た娘は色の小黒いキッと引締まって見るからに利発そうな顔だ、などと松風会員が品評などしていたのを覚えている。時には白がとか黒がとか異名をもって、両人の噂をするのも聞いたことがあった。而してその少女こそ今日のホトトギス派女流俳人・久保より江夫人であることを近頃になって予は承知したのであった」と書いています。
 
 久保より江は、明治17年9月17日生まれ。子規、漱石と出会ったのは明治28年の秋で、当時11歳でした。父親の宮本某は西条の鉱山に勤めていたといいますから、西条市市之川地区にあった市之川鉱山(現在閉山)に勤めていたのでしょう。市之川鉱山は輝安鉱(アンチモン)を産出し、世界最大級の結晶も見つかっています。明治15年から昭和30年にかけて、国内アンチモン鉱の半分を算出したといいますから、鉱山技師として働いていた父親は、あまり家族をかまうことができなかったのでしょう。アンチモンは、活字金や砲弾の硬度を高めるために使われました。
 より江は明治32年に上京し、府立第二高等女学校に学んで卒業しました。のち福島県二本松の医学博士・久保猪之吉に嫁いでいます。久保は、耳鼻咽喉科の医師以外にも歌人として知られ、子規門下の長塚節とも親交がありました。猪之吉が明治40年に九州大学教授となって福岡に赴任します。福岡には松根東洋城との悲恋で知られる伊藤白蓮が住んでおり、ふたりはたちまち親しくなました。大正7年ころ、本格的に句作をはじめ、高浜虚子に師事してホトトギス同人となりました。
 

 
 より江は、子規と漱石の思い出を『二番町の家』で綴り、親交のあった虚子は『漱石氏と私』でより江の手紙を紹介しています。
 
 数年前の春、久々で帰松した時、酒井黙禅さんたちと二番町の横丁を通って見た。それは子規先生、漱石先生のかりの宿として有名になった私の祖父の上野の家が、現在では蕎変屋とかになっているという風説があったために、実際どの家が昔のほんとの上野か、たしかた所を見定めて欲しいという御希望もあったし、私としても幼ない時住み馴れた家をよそながらでも見たいと思ったからであった。
 それに今一つ同行の主人にとっても、この横丁は因縁がないでもなかった。
 いつか松山の話が出た時に「自分も昔行ったことがある。中学時代(福島県の安積中学)特にお世話になった先生が松山中学に転任されていたので行って見たんだ」という。短い滞在ではあったし、古いことだし、どの町だったかは主人の記憶に残っていないが、その先生が犬塚又兵先生だと聞いて驚いた。犬塚先生ならば同じ町内で、上野よりも三番町によった同じ側に住んでいられ、立派な白髭の持王でお習字の先生でよくお見受けしていた。そうすると、主人が泊めていただいたのもこの横丁のお家だろうと思われる。第一高等中学校の学生時代とばかりで、明治何年だったかをハッキリ思い出せないのが残念だが、丁度その日が日蝕に当り、犬塚先生と盟に水を汲んで見守っていたのだという。
 とにかく昔は静かな屋敷町で石川という大きな門構えのお家の横あたり、竹藪つづきで恐ろしい位だったのに、この頃は大街道に抜けられる意気な小路が出来たり、なかなかにぎやかな街となったらしく、従って「上野の隠居家変じて蕎麦屋となる」というような噂もたったのであろう。
 しかし幸にそれは単に風説に過ぎなかった。思ったよりも軒のひくい上野の家は依然として櫺子窓、格子戸造り、ひっそりとしたものであった。黙禅さんが案内を乞われると、婦人が出て応待されたが、今は母家と離れ座敷と全く別になっており、離れの方の持王は時々見えるばかりで、大抵はしめ切ってある。今日も留守とのこと、その上入口も全く別で鍵のかかっている左の門がそうだという。
 その左の門というのはもちろん建て替ったのではあろうが、昔の不浄口の所で便所汲取以外には使わなかった。母家とは昔から壁で境され、下水の小溝が片側にある細長いじめじめした通路が物骰につき当たって庭に出られるようになっていた。
 今後旧跡見物の人たちがこの細道を子規先生や漱石先生の朝夕の通い路だったかと、在りし日を懐しまれる恐れがあるからハッキリ断っておく。両先生や多くの俳人は皆、この母家の格子戸を出入りされたので、暗い土間、井戸端の御影石を踏んで小庭に出てめかくしの垣根をくぐって離れの沓脱に到着、雨の日などは傘をたたんだりさしたりお気の毒であった。このことは極堂先生はじめ御記憶にあるであろう。
 今後の保存会では、この母家と離れとがどう取扱われるか知らないが、この格子戸から奥への通路以外、母家は先生がたに無関係である。漱石写真帖には「二六、松山の宿の表八畳の間」として上野の母家の座敷が出ており「子規居士松山に帰省して寄寓せしよりともに裏二階に移りしという」とあるが、この写真の部屋は漱石先生に何の関係もない。先生は、最初から離れに引越して来られたので、はじめは下座敷だったのを、子規先生同居の時二階にお移りになったのである。この写真の部屋は上野の客間兼祖父の部屋兼私たちの寝室で、私にとっては忘れられないものである。
 ついでだから書き添えておくが、あの写真帖の「三〇、松山市二番町の宿階下、ここに子規居士寄寓して約二ヶ月を送る。門下を集めてしきりに句作に耽りしという」とある写真の部屋はどうも次の間らしい。かんじんの子規先生の病室は、左の方の障子一枚見えてる方ではないかという気がする。その内一度実地を見たいと思う。
 あの離れは祖父が母家を買い入れ、港町から引移って後に新築したもので、材木の切れはしを大工にもらって積木をしたり、襖のカマチのクイチガイの切れはしを小人形の椅子にして嬉しがったりした。そんな記憶があるところから推すと、明治二十一年か二年頃出来たのであろう。祖父はここに隠居するつもりで建てたのだが、跡継の出来がわるくて隠居ができず、先生がたにお貸したため、却ていつまでも保存されることになった。祖父も地下でさぞよろこんでいよう。もしもこれが上野の所有のままであったならと考えるにつけ、私はあの柔和な品のいい祖父が、晩年あまり幸福でなかったことを悲しむ。
 祖父は三十一年にあの家で亡くなったが、その後不幸つづきで、まもなく売ってしまい、二番町の代家のなかの一つに引越し、そこで淋しく永眠したのである。両先生のお世話を手一つに、その上祖父母の世話からわがままな私のことまで女中相手にかいがいしく働いていた伯母は、それより以前に家を出てしまい、祖母の最期にも居合さなかった。
 先生がたのいらっしゃった明治二十八年といえば私は十一歳、丁度日清戦争の頃で、三つ組のオ下ゲをチャンチャン坊主とからかわれ通しであった。
 その当時両親は東予の鉱山に行っていたが、私は学校を替るのがいやで祖父の家に預けられていた。子規先生が離れにお見えになった頃は夏休みで、父母の手許へ遊びに行っており、九月はじめに帰松してはじめて病人のお客様がふえたことを知った。私の帰ってきた日、暑気あたりだといって祖母は一番風通しのいい中の間に寝ていた。物珍しい鉱山の様子を私が話して聞かすと祖母は嬉しそうに起き直って、あとを促した。何もない山の中、せめておみやげにといって母がことづけたのは、山の裾を流れるカモ河(=加茂川)の焼鮎であった。たぶん両先生のお膳にもその晩あたり載ったのであろう。
 伯母のうしろにひきそうて、はじめて子規先生のお部屋へ行った時、一番先目についたのは支那からでもお持ちになったのであろう、真紅な長い枕であった。
 まだ子供だった私、先生がたについてのことはあまり思い出せない。しかし短時日ではあったけれど、ずいぶんかわいがっていただいたものだと、有難く思う。照葉狂言がすきだというのでいつも連れて行って下すった。句会の末座にかしこまった夜もあった。離れにえらい先生がいらっしゃるというので、学校でも肩身が広かった。校長先生はじめたくさんの先生が句会に来られた。学校の帰りなど教員室の窓から手紙を托されたり、「きょうは用事があって行かれんというておくれ」などとことづけられたりするのが内心得意だった。
 今でもめに残っているのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの着流し、ややよごれた白縮緬のヘコ帯を痩せて段のない腰に落ちそうに巻いていられた。(久保より江 二番町の家)
 
 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかったことをうっちゃっていますから。
 一月号の「兄(けい)」では私上野の祖父を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外の親類と争うたりしました。ようやく裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。
 おはずかしいことを申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
 あの一番町から上って行くお家に夏目先生がいらっしゃったことは私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるということを子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすったのですのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。――松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが――夏目先生のことはただかわいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉狂言にも度々おともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白縮緬のへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母が袷と羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔をしていて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談(じょうだん)でおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖のお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。
 実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春と応挙と常信の画譜は今でも持っておりますが、あのお離れではじめて知った雑誌の名が『帝国文学』で、貸していただいて読んだ本が『保元平治物語』と『お伽草紙』です。
 興にのって大変ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなったことでしょう。長塚さんもいつかこちらへお帰りに前を通ってみたとおっしゃっていました。あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖のたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。
 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。
 寒さの折からおからだをお大切に願います。
よりえ
 
 この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「中の川」「嫁ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨(れいけい)として紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているということである。(高浜虚子 漱石氏と私)
 
 照葉狂言の泉助三郎一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になって私の記憶をいつまでも鮮かなままでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行っていただいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私が縋(すが)っていたが、左には中学校の校長だった横地地理学士の上のお嬢さんが手をひかれていらっしった。私より一つ二つ年下であったろう、かわいいかたであった。
 松山時代の先生を偲べば従って正岡先生も思い出さずにはいられない。夏休みを父母の許で送って九月のはじめに、また二番町の家へ帰った私は離れに別の客を見た。御病人だということでいつも床が敷かれて緋の長い枕が置いてあった。学校の先生や大勢のかたが毎日見えた。学校の帰りなど教員室の窓から校長さんが首を出してよりさんと呼ばれるので、何か叱られるのかとおづおづ引きかへすと「きょうはせわしゅうて行けぬ(今日は忙しくて句会に行くことができない)と正岡さんにいうておくれ」などとおことづけを承ったりした。句座のすみにちいさく畏って短冊に覚束ない筆を動かした夜もあった。お従弟にあたる大原の坊ちゃんが薬瓶を一日おき位に届けに見えた。その秋、学校で展買会があるというので、正式の学芸品以外に何か出品しなければならないはめになった私はありったけの智慧をしぼり出して、正岡先生の俳句を刺繍することにきめた。刺繍を習ったこともないくせに随分大胆な企をしたものだと今思うと恥しいようである。何かの表紙をしきうつしにした紅業と流れの上に快く
   行く秋のながめなりけりたつた川  子規
 と書いて下さったのを俄かじたての枠にはったあたり前の絹糸をわいて縫いはじめた。そういうことのすきな伯母が大抵手伝ってくれた。
 その刺繍のできあがらないうちに正岡先生は急に御上京になった。学校から帰った私に伯母は(正岡先生が)御出立の前もわざわざこちらの座敷まで見にいらっしって「わりあいによく出米た。できあがりを見ないで立つのが残念だとよりさんにいってくれ」とおっしゃったときかせてくれた。
 私は虚子先生にもその時分御めにかかったことがあるように思う。「高浜さんはまだお若いような」と伯母が祖母に話しているのを聞いたことがある。(久保より江 嫁ぬすみ 夏目先生のおもいで)





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最終更新日  2019.07.16 19:00:07
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