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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.07.25
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カテゴリ:夏目漱石
   うつくしき蜑の頭や春の鯛  漱石(明治32)
 
 漱石は、明治36年6月14日の菅虎雄宛の手紙で「大塚の三女が先達て病気で死んだ。僕は見舞に鯛をやって笑られた」と書いています。
 大塚とは漱石の2歳年上の大塚保治のことで、楠緒子をめぐって恋のさや当て(といっても水面下での静かな争いでしたが……)をした相手です。漱石との親交も厚く、互いに尊敬していました。
 この年の5月、三女をなくした保治のところへ、漱石は祝いのしるしである鯛を送ったというのです。
 
 これに怒った保治は、漱石に借金の返済を迫ります。借金がどのくらいだったかというと、妻・鏡子の『漱石の思い出』には「熊本から引き揚げる時に、世帯道具は一式手放して身一つで来たのですから、それから買い備えなければなりません。それから移転料もいります。けれども有り金はほとんどないのです。そこで大塚博士の貯金のうちから百円か百五十円かをお借りして、ようやくそこへ落ちつくことができました(18黒板の似顔)」とあります。
 この年の5月21日の菅虎雄宛の手紙には「大塚の三女病気にて死去。それがため同人よりの借銭返却のため、貧乏なる山川を煩わし候」と書かれています。『漱石の思い出』には「大塚さんのところでお子さんが亡くなられ、用立てていただいたお金をかえさねばならなくなって、なんでも山川さんかにお願いして肩代わりをしたことがありました(18黒板の似顔)」とあり、女性スキャンダルのために一高を退職し、この時失業中であった山川信次郎から借金をしました。
 

 
 なぜ、漱石は保治の三女の死に対して、鯛を送るような奇行をしたのでしょうか。
 この時期、漱石はゆるやかに狂気への道を進んでいました。
 
『漱石の思い出』には「四月の新学期から学校へ出ましたが、大学が六時間、一高が二十時間、講義のノートを作ったりして、ずいぶん勉強していたようです。けれども学校は、ねっからおもしろくないらしく、自分では外国で計画していた著述でもしたい様子でしたが、これまでの行きがかりもあり、ほかに生活費を得る道もないので、目をつぶって学校へ出ていたようです。しかしいやだいやだと口ではいっても、根が義務観念の強い人ですから、めったに休んだり遅刻したりするようなことはありませんでした。かてて加えて外国から持って来たあたまの病気が少しもなおらないので、なおさらすべてのことがおもしろくない様子でした(18黒板の似顔)」「六月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、七月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が町ださわるのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何といわず、手当たりしだいのものをほうり出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当たり散らしております。どうにも手がつけられません(19別居)」とあります。
 また、この後に書かれた「断片」では、家の近くにある合宿書がうるさいという不満を書きなぐっています。「我輩の向こうの家に〇〇〇という書生の合宿所がある。この書生らは日常我輩の癇癪を起して大声を発するのを謹聰するの栄を得る果報者である。時として先生の仮声などを使って我輩を驚かしめる。そこに女の召使か何かがおって、この書生と二人仮声を使う。その標本を一寸諸君に御紹介する、ただしこの書生どもは種々研究の結果、色々な仮色を使い分ける。ある時は某教授となり、ある時は某先生となる。中々多芸なものである。余計なことであるが、その代りに役者の仮声でも習ったら、小使取くらいになるだろうと思われるが、学校の先生の仮色では単に我輩を驚殺せしむるのみで、他に何等の功能もないのは気の毒である」とあり、漱石の狂気が反映されています。漱石は、この時期、他人から悪口をいわれている、誰かが「探偵」のように自分をつけねらっていると信じ、生来の権力嫌いから、教授・博士などの地位や肩書きに対する反感を抱いていました。
 
 保治は、漱石を帝大英文科講師に推薦しています。そのことが、漱石の心に潜んでいた権力嫌い・帝大嫌いに拍車をかけ、日々の嫌な帝大での生活を強いてきた保治に対して、無意識の反感がうまれ、そのことが娘の死に際して鯛を送るという暴挙に出たものと考えます。また、楠緒子への思慕が残っていて、その意趣返しも含まれていたようにも考えられます。
 
 ただ、漱石に距離をとっていた保治も、その後の『吾輩は猫である』などの活躍によってか、従来の付き合いを取り戻しています。
 明治42年、保治は漱石のところへ『文学評論』評の手紙を送りましたが、漱石はそれを「国民新聞」に掲載していいかと尋ねました。その手紙には、奇しくも「君のところに御産があったように聞く。奥さんも赤坊もご壮健ならんことを祈る」と書かれていました。
 
 御書拝見仕候。愈御出発の期にせまり、さぞかし御多忙のことと存候。小生は存外閑暇にて学校へ出て駄弁を弄し居候。大学の講義わからぬ由にて大分不評判。俳人時々来訪、またまた邪道へ引き入られそうなり。藤代、先日より病気本日承り候えば肺炎の由。しかし最早全快のことと存候。第一高ははるかにのんきに候。熊本より責任なく愉快に候。大学の方はこの学期に試験をしてみて、その模様次第にて考案を立て、考案次第にては小生は辞任を申出る覚悟に候。もし左様なれば、小生の目的通の研究をなす積に候。大塚の三女病気にて死去。それがため同人よりの借銭返却のため、貧乏なる山川を煩わし候。山川はあいかわらずに候。先日一寸訪問。自転車の稽古をして戻り申候。近頃、昼寝病再発、何にもせず寝ており候。不平でも病気でもなく、ただ寝たいから寝る次第、甚だ意味なき寝方に候。俣野の父死去の由、気の毒の至に存候。同人、今回もまた落第のことと存候。支那へも一寸参り度候。しかし教えるものがないから困却致候。日本語を二時間許教て三百元くれるわけには参りませんか。先は御返事まで。勿々不一。(明治36年5月21日 菅虎雄宛書簡)
 
 尊翰拝誦無事御着の段奉賀候。目下ゴタゴタで休暇のよし珍重存候。なるべくゴタゴタを長くして休む算段をすべし。教授なんか何でもいいさ。僕が教える生徒に支那人の何とかいうのがある。僕はすきな男だよ。朝鮮人もいる。これもすきだ。高等学校はすきだ。大学はやめる積だ。一方、案を立てなければならん。何のかんのいって、一学期立ってしまった。僕も一度神社仏閣のような家に住んでみたい。学問なんかするな。馬鹿気たもんさね。骨董商の方がいいよ。僕は高等学校へ行って駄弁を弄して月給をもらっている。それでも中々良教師だと独りで思ってる。大学の講義も大得意だがわからないそうだ、あんな講義をつづけるのは生徒に気の毒だ、といって生徒に得の行くようなことは教えるのがいやだ、試験をしてみるにどうしても西洋人ではなくては駄目だよ。
 近来昼寝病再発、ぐーぐーねるよ。博士にも教授にもなりたくない。人間は食っていればそれでよろしいのさ。大著述も時と金の問題だから、できなければできないでも構わない。天、勾践を空するという訳かね。近来南隣の八っちゃん、北隣の四郎ちゃん、背後の学校の生徒諸君、日課を定めて色々なことをやっているよ。これも一学期結了という訳さね。
 その外何もかくことがない。御留守宅ヘは、その後伺わない。御変もあるまいよ。大塚の三女が先達て病気で死んだ。僕は見舞に鯛をやって笑られた。
 僕は切角調べかけたことを丸で忘れてしまった。愚な話しだ。(ノート)なんか焚てしまうと思う。
 君の状袋と半切は気に入った。さすが支那的だね。
 今常公(=次女の恒子)が泣いているよ。あいつは泣て仕方がない、山川不相変で困る。僕も相変らずで困る。
 右早速御答まで。実は少々気取って夏目は字が上手になったといわれたかったが、そんな山気もなくなったから天真爛漫たるところで御免蒙る。左様なら。(明治36年6月14日 菅虎雄宛書簡)





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最終更新日  2019.07.25 19:00:08
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