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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.07.27
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カテゴリ:夏目漱石
 ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午になると開いた。そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛み摧いては、生唾の力で無理に嚥み下した。(道草 59)  
 
 漱石の門人に野村伝四がいます。東京帝国大学英文学科に入学していた伝四は、同郷の3年先輩である野間真綱の紹介で、漱石宅に出入りするようになり、卒業の前には積極的に翻訳、小説、随筆などに取り組みました。それらは『ホトトギス』『帝国文学』などに発表され、文学社への道を歩むかに思われたのですが、教育者の道を歩みました。東大卒業後は、岡山、山口、佐賀、愛知、大阪、奈良などの中学の教師や校長を歴任。柳田国男の影響を受けて、民俗学の研究に傾倒しました。
 
 漱石の門人は、悩みを抱えて漱石に甘えるタイプと、飄々として気楽に付き合えるタイプに大きく分けられます。伝四は後者で、漱石はハガキや書簡に「伝四大人閣下」「伝四先生」と呼びかけています。
 明治37年6月4日、漱石は絵ハガキ2葉を送りました。「No.1 Yellow Flames of Mr.K. N. 僕の気焔を吐いているところだよ。Mixed Melody. 大学の家事は寝込んでいて知らなかった。今朝見て驚いた」「No.2 夏目講師気焔を吐きすぎて免職。猿廻しとなるところ」と書き、自筆のイラストを添えています。
 

 
 6月17日、漱石は伝四に「昨日散歩の序、同学舎の前を通れり。没趣味にして、かつ汚穢極まる建物なり。伝四先生、この内に閉居して、試験の下調をなしつつあるかと思えば気の毒の至なり伝四先生の答案を瞥見せり。伝四先生のパラフレーズはパラフレーズにあらずミスプレースなり。日本の運送船がまたやられた。金洲丸事件に鑑みざる日本人は、さすがに大国の襟度を具したるものか。持ちたくなきものは大国民の襟度なり。昨日、ハンケチ一ダースとビスケット一箱をもらう。ハンケチで汗をふき、ビスケットをかじる。転居せんと思うが、よき家はなきか」と書きました。
 翌日、「ビスケットをかじりて試験の答案を検査するに、ビスケットはずんずん方付くけれども、答案の方は一向進まない、物徂徠いう妙豆を喫して古人を罵るは天下の快事なりと。余いう、ビスケットをかじって学生を罵るは天下の不愉快なりと。伝兄以て如何となす。僕は一文なしの癖に、近頃しきりに住宅の図案を考えている。それ故に、書物を読んでおっても、茶坐敷や築山が眼に映じて書物がわからん、かかる先生に答案を閲せらるる学生は、幸かはた不幸か。伝兄以て知何となす。君が英文が下手なのは書物を沢山読まんからである、小言を申す我輩も決して上手ではないが、日進月歩の今日、弟子たるものは先生を凌がなくてはいけないから、その積りで多少工夫して書物を読まねばい関与。伝君以て如何となす。橋口がまた絵端書をくれた。静かな海に雲の峰それに白帆。甘(うま)いものだ。僕の手腕よりも少々上等の様だ。伝君以て如何となす。どこか善い借家はないだろうか。休暇の始めに引越して、そこで夏中勉強を仕様と思う。伝君以て知何となす。そして君は手伝に来て呉れるだろうね。伝君以て知何となす」と書き、22日には「君が遠慮して来なくとも、毎日来客で繁昌だよ。ビスケットは事件すこぶる進行して、最早一個もない。その代り答案の方は到底予定の知く行動する訳にいかない、君の答案は存外まずい。この次にはもっとうまくや〔ら〕なくてはいかんよ。小山内や中川の方が余程よろしい」と、ビスケットを食べてしまったのに、試験の答案がなかなか片付かないことに憤っています。
 
 漱石は、千駄木脱出のための家を探すよう、伝四に頼みました。伝四は、『散歩した事』で次のように述べています。
 
 明治三十八九年頃の先生、即ち千駄木時代の先生は、よく散歩をされたようである。食前食後の散歩も多かった。しかしてそんな時の散歩は、中川芳太郎氏の放送によれば、定まって、千駄木から本郷三丁目の十字路に出で、そこから東に曲って湯島天神脇の切り通しを下り、池の端に出で、そこから根津権現様の社内を抜けて帰宅されたということである。私にはこの種の散歩に御伴をした明瞭な記憶を持ち合せぬが、先生はまた別に三四時間に亘るような散歩も往々なすった。これは人が誘い出すのか、御自分が主唱者か判然せぬが、兎に角よく散歩された。無論一人の時もあったろうが、一二の人々との散歩も多かったように記憶する。
 私一人が御伴した場合を拾って見ると、貸家を探すという触れ出しで、麻布、芝の辺を歩いたことかある。電車は恐らく本郷三丁目で乗って、芝区桜田本郷町辺りで降りたであろうが、それから山之手方面を二人で歩いて、別に貸家を探すでもなく、巨大な屋敷などがあると無暗と感心して歩いたのだ。阿波の蜂須賀侯の屋敷前では、門構への堂々たるのに見惚れて、先生はわざわざ砂利を踏んで内側まではいり込み、折柄寒い日だったが、外套の襟を立てたまま、内から外の方に向き帰って、門の家根造りを暫らく仰ぎ見て、出ようともされぬので、私は道路に立ったまま、御待ちしつつ、今にも門番に一喝されはせぬかと心配したことを今でも記憶している。しかして目的の貸家は遂に見当らなかった。(野村伝四 散歩した事)
 
 漱石が伝四をかっていたことは明治38年1月4日の伝四宛の手紙でもわかります。漱石は伝四の文を高浜虚子と坂本四方太に見せましたが、あまり良い評価を得られませんでした。「昨夜は虚子と四方太と橋口兄弟を呼んで猪の雑煮を食わした。君はもう二返食っているから呼ばなかった。虚子と四方太に君の文章を見せたら、四方太曰く、これは写生文じゃない。三十七年十二月三十一日の雑録だと伝四君にそう伝えてやりたまえと、僕はこの一言に避易して、ほととぎすへ出せともいわなかった」と送ると、伝四は虚子のところへ直談判に行きました。
 2月22日の伝四宛の手紙では「君が虚子の所へ談判に出懸けたのは一寸驚いた。虚子が既に広告をしたなどと断ったのも驚いた。広告などはどこに出ておるかね。切角の御依頼だから、七人へ何か書いて出してもらいたいが、色々用事もあるし少しは本もよみたいから、うまく時日内に出来るかどうか受合う訳にもゆかぬ。君から小山内君へそう話して置いて呉れたまえ。先日寺田が七人を借りて行って、左の端書をよこしたから一寸報知をする。『○村○四さんの「二階の男」、面白く拝見しました。中々うまいものです。格別の山もなく、谷もないかわりに厭味もなく、近来、兎角溜飲につかえる文壇には、大に歓迎すべき一服の清涼剤であると考えます。猫伝以来の出色の文字、感服しました。猶進んで二階の女か何かかいて貰い度者です。そうすると私も何か一つ「床下の狸」でも書く。洛陽の紙価が十四パーセントあがる。愉快じゃありませんか……』僕も猫のつづきを書こうと思いながら、ついまだ筆を下さない。今度は実業家の妻君のことを書くよ」と伝四を励ましています。
 
 漱石は、伝四を寺田寅彦に近い存在として、好ましく感じていたようです。
 明治39年1月7日に森田草平に宛てた手紙では「僕は、君の文が出る度に読みます。そうして時間の許す限り、心づく限りは愚評を加える積りです。その代り悪口をいっても怒ってはいけません。大学では君の先生かも知れないが、個人として文章などをかく時は同輩である。決して僕に対して気を置いてはならぬ。君はあまりに神経的、心配的、人の心を予想しすぎるような傾向がありはせんかと思う。他人に対してはとにかく僕に対してはそうせん方がいい。君も気楽でいいでしょう。野村伝四などは気楽なものである。あまり長くなるからこれでやめます」と書いています。
  悩みを抱えて漱石に甘えるタイプである草平への手紙と比べると、飄々として気楽に付き合えるタイプの伝四への距離の近い気楽な関係が見えてきます。





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最終更新日  2019.07.27 19:00:07
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