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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.09.18
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カテゴリ:夏目漱石
   湯壺から首丈出せば野菊哉  漱石(大正元)
 
 大正元年8月17日、漱石は満州鉄道総裁・中村是公(是公は芸者同伴)とともに塩原、日光、軽井沢、上林(長野)と15日間の旅に出ます。当初は16日からの予定だったのですが、妻の鏡子が15日に激しい腹痛を起こしたため、1日延期になったのでした。
 上野を9時30分に発車する青森行きの急行に乗り、午後1時12分頃西那須野で下車。この年の7月11日に西那須野から関谷間が開通したばかりの軽便鉄道・塩原軌道に乗って関谷まで行き、人力車で大綱まで向かうと米屋旅館の出迎えがありました。古町にある米屋旅館で休憩し、米屋別館に行き、米屋の主人が管理している真田幸民伯爵別荘(中塩原今井が岡)に泊まりました。ただ、温泉に浸かったのは米屋本館で、漱石は23日の朝まで米屋に逗留しました。
 漱石はこの日の日記を次のようにしたためています。
 
○八月十七日〔土〕塩原行
 九時三十分の急行。赤帽に聞くと大分中等が込みあいそうなので上等にのる。寝台六人前(上を併せて十二人分)の列車にただ一人なり。扇風器が頭の上で鳴る。大宮々々、浦和々々、という声を聞いて寝ている。
 十二時頃食堂に行く。食堂のつぎに喫烟室、その次が中等の一部。そのここからのつき当りの左の隅に丸髷の女、突当りに男、つれだか何だか分らず。食卓の前の男(色の青い丁稚上りと見える)海老のフライを二皿食う。左側の男シャツ一枚で食いながら書物をよむ。しばらくする〔と〕さっきの女と男がつれ立って食堂へ這入ってくる。はじめて連ということが分る。
 西那須〔野〕へ下車。軽便鉄道の特等へ乗る。さっきの男女向側へ腰をかける。関谷で下車。車を雇う。一番先がシャツ一枚で書物をよんだ男、その次は帽子の下へハンケチを風に吹かせた男、その次が自分、女と男は後れて来る。
 いい路なり。蘇格土蘭土(スコットランド)を思い出す。松、山、谷、青、藍の水。
 後から四台つづき(これは自分のすぐ隣りの中等室に家族一同のれる人)くる。特等列車のうちでどちらへ手前は塩の湯へ参りますといった男の妻子もくる。大網という所で私は米屋で御座いますといって仙台平の男が呼びとめる。その間にあとの車が先になる。
 やがてシャツ一枚の男は橋の処で写真をとる。余の次の室の一団は松家の門口でとまる。余の車は美人のあとからずんずん行く。男と彼女の距離よりも彼女と余の距離の方余程近し。連か御供と見える。米屋の所で一寸御茶を一つといううちにまたかの女と遠かる。余が別館へまた出掛ると彼等はまた楓川楼から引き返す。客が多くて断わられたものならん。
 別館は変な所なり、ただ閑静というのみなり。米屋へ入湯に行く。(漱石日記)
 

 
 塩原温泉郷は、古くから塩原十一湯と呼ばれ、箒川下流の東から上流の西へ大網、福渡、塩釜、塩の湯、畑下、門前、古町、中塩原、上塩原、新湯、元湯、という温泉街が点在していて、約150の源泉から湯が湧き出しています。そのため、多様な泉質や成分の温泉が湧いていて、地域によって温泉に特色があるのです。
 米屋旅館本館のある古町温泉の泉質は、塩化物泉・炭酸水素塩泉・単純温泉で、温度は40~60度とやや高温、きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病に効能があるといいます。
 
 田山花袋は『温泉めぐり』で塩原温泉の魅力を「塩原は有名な温泉郷である。山が美しく、渓が美しい上に、温泉が到る処に湧き出している。福渡戸、古町、塩の湯、皆な行って浴すべしである。私の考えでは、箱根、塩原、この二つが都会の人たちの行って浴ずるのに最も適したものであろうと思う。無論、設備や交通の便に於ては、これ、彼に及ばないこと遠しといわなければならないけれども、早川と箒川とを比べては前者は決して後者の匹俦ではなかった」と書いています。また、漱石が人力車で眺めたであろう、大網から古町への道すじを「大綱を下に見下してから、十八町の路、渓に添った路、洞門があったり渓橋があったり小さな滝があったりする路、この路は自動車や車で行くよりも、却って徒歩で行く方が好い。いかにも渓の眺めのすぐれたところである。福渡戸、塩の湯、門前、古町、何処に行っても、滴洒な浴舎と、層々重なった二階三階の家屋とを私たちは見ることが出来た。一番都会の人たちのやって行くのはどうしても福渡戸だが、やや静かな心持を味おうとするのにはもう少し入って、塩の湯あたりまで行って見る方が好い。そこにある明賀屋という旅舎は静かで好かった」と褒めています。
 
 漱石が泊まった米屋別館(真田幸民伯爵別荘)は、信濃松代藩の第10代の藩主・真田幸民のもので、のちに長男の幸正が保管しました。幸民は、伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男でしたが、真田幸教の養子となり、慶応2(1866)に家督を相続して、戊辰戦争に際しては新政府側として行動しました。

 古町がどのような温泉郷であったかを明治時代の資料で探してみました。
 明治32年発行の佐藤一誠著『小仙郷(塩原温泉紀勝)』には、「古町は箒川を隔てて門前と相隣る、中に蓬莱の一橋あるのみ、大久保、狭間の峰巒は巍々として東北に聳え、倉下、喜十六の山岳は西南に横たわり、箒川の長流は道の東を廻りて大久保、狭間の麓を流る。ここは塩原地内最も人家多く、門前と連続して宿駅の体をなし、すこぶる繁華也、温泉宿は、角屋、茗荷屋、中会津屋、永楽屋、銚子屋、会津屋、稲屋、那須屋、万屋、米屋、常陸屋、鍛冶屋、楓川楼という、おおむね二層三層の高楼を構う、温泉は七箇所にあり」と記されています。
 明治44年刊行の田代近三編『塩原温泉誌』にも同様に「古町は箒川を隔て門前と相隣る中に蓬莱の一橋あるのみ、この地海面を抜くと一千四百二十尺、大久保狭間の峰巒は巍々として、東北に聳え、倉下喜十六の山岳は西南に横たわり、箒川の長流は道の東を廻り、人家は本堂の両側にの気を連ね、温泉宿八戸、雑貨店十数戸、温泉宿は、角屋、中会津屋、上会津屋、米屋、加治屋、万屋、那須屋、楓川楼という二層、もしくは三層の楼を構え、皆内湯の設けあり、温泉は五ケ所あり、不動湯、旭の湯、中の湯、角の湯、御所の湯などなり、泉質は無色透明、無臭にして藍色試験紙を紅変す」とあります。
 これらをまとめると、古町温泉は無色透明の湯で酸性であり、塩原温泉の中でも有数の繁華街となっていたことがわかります。
 

 
『小仙郷(塩原温泉紀勝)』には、多くの広告が掲載されていますが、その中に米屋・細井久平のものがありました。漱石が泊まった別館ではなく本館のようですが、宿の売り文句が難しい熟語を多用して綴られています。
 
 塩原山中熱鬧(ねっとう=賑やか)にして、来客麕集(きんしゅう=群集)の地を古町とす。弊店は各地より新湯温泉に至るの要衝にあたり、ただかの有名なる勝地、源三洞窟、八幡社、瀉霓(しゃげい)洗心などの諸瀑に杖をひくの諸君は必ず弊店において休憩せざるはなし。かつ弊店は飲食の調理割烹などには特に意を注き、営業のため拮据励精仕候ため、顧客日に増加を見るは弊店の深く謝する所なり。なおこの後一層勉励仕候間、続々御投宿のほど奉希望候
     塩原温泉古町
     米屋 細井久平
 
 米屋旅館本館は、現在ホテルおおるりと代替わりしましたが、漱石の日記を刻んだ碑が建っています。





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最終更新日  2019.09.18 19:00:10
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