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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.09.19
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カテゴリ:正岡子規
   花に行く足に二日の灸かな(明治20)
   婆々様の顔をしぞ思ふ二日灸(明治26)
   無病なる人のいたがる二日灸(明治28)
 
 子規の幼名は、父・常尚と実懇だった鉄砲師範・竹内一兵衛により處之助と命名された。しかし、この名は、トコロテンの響きに似ているため、皆から馬鹿にされないように升と改め、「のぼさん」の愛称で呼ばれるようになった。
 幼い頃の子規は、泣き虫で弱虫でした。体躯が小さく病弱で、独楽まわしや凧あげなど野外の遊びに参加することは少なく、近所の子どもたちと喧嘩をしてもいじめられました。母の八重は『母堂の断片』で「小さい時分にはよっぽどへぼでへぼで弱味噌でございました。松山で始めてお能がございました時に、お能の鼓や太鼓の音におじておじでとうとう帰りましたら、大原の祖父に、武士の家に生れてお能の拍子位におじる、とそれはそれは叱られました。近所の子供とでも喧嘩をするようなことはちっともございませんので、組の者などにいじめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をするようで、それはヘボでございました」と語っています。
 
 ところが、子規には一つだけ自慢がありました。晩年になって、子供の頃を振り返り、お灸の痛さには我慢していたと自慢しています。明治34年4月8日の『墨汁一滴』には「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて、小学校に往っても度々泣かされていた。たとえば僕が壁にもたれていると右の方に並んでいた友だちがからかい半分に僕を押してくる、左へよけようとすると左からも他の友が押してくる、僕はもうたまらなくなる、そこでその際足の指を踏まれるとか、横腹をやや強く突かれるとかいう機会を得て、直ちに泣き出すのである。そんな機会はなくても、二、三度押されたらもう泣きだす。それを面白さに時々僕をいじめる奴があった。しかし灸を据える時は、僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいじめるような強い奴には、灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かった。これはどっちがえらいのであろう」、明治35年7月26日の『病牀六尺』では「○ある人からあきらめるということについて質問が来た。死生の問題などはあきらめてしまへばそれでよいというたことと、またかつて兆民居士を評して、あきらめることを知っておるが、あきらめるより以上のことを知らぬといったことと撞着しておるようだが、どういうものかという質問である。それは比喩を以て説明するならば、ここに一人の子供がある。その子供に、養いのために親が灸を据すえてやるという。その場合に当って子供は灸を据えるのはいやじゃというので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。もしまたその子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思うて、親の命ずるままにおとなしく灸を据えてもらう。これはすでにあきらめたのである。しかしながら、その子供が灸の痛さに堪えかねて灸を据える間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それはわずかにあきらめたのみであって、あきらめるより以上のことは出来んのである。もしまたその子供が親の命ずるままにおとなしく灸を据えさせるばかりでなく、灸を据える間も何か書物でも見るとか、自分でいたずら書きでもしておるとか、そういうことをやっておって、灸の方を少しも苦にしないというのは、あきらめるより以上のことをやっているのである」と書いています。
 
 どうして子規がお灸に対して免疫力を得たかというと、子規の家にいたおばあさんにあるのでした。このおばあさんは子規の曽祖父の後添いで、正岡と名乗らず小島という姓をつけていました。このことについて、子規の妹・律が『家庭より観たる子規』に語っています。
 
(碧)稚い時世話になった、という小島ひさとか言ったお婆さんのことも書いておられますが、あのお婆さんというのは?
(律)あのお婆さんには兄初め私まで、ただ世話になったという位でなく、まア育ての親と言ってもいい位、可愛がられたものでした。
 固と私の家には、父の上の祖父がなくて、曾祖父にあたる老人がありました。くわしいことはわかりませんが、その曾祖父の後添い、というようなことで、あのお婆さんが来られたのであろうと思います。
 なぜ小島姓であるかは、私も存じませんが、小島家は、何かお咎めをうけるようなことがあったらしく、断絶同様になっていました。随分貧しい暮しをしていたようで、長男は永井という家へ養子に行き、二人の子供は坊さんにしたとも聞いています。その後中島(忽那七島の一つ)という島の人に縁があって再婚されましたが、どういう訳でか、その島を逃げ出して、一時松山に隠れて見えたこともあるそうです。島にも子供があったとかで、その主人が行方を探して、見つけたら殺すなどと血眼になっていた、とも言います。そんなことのあった後、世話する人があって、宅へ見えたのであろうと思われます。その島へ再婚される時お上から「捨て遺わす」というのでお許しが出たともいうので、宅へ見えても入籍するということが表向き出来なかったのでないかと思います。ーお婆さんがいつまでも、戸籍面にも、小島姓であったわけは以上の通りでありますが、道後へ別に葬ったというのは、ちょうどその当時、市内には土葬が出来ないことになったからです。お婆さんは、死んでも焼かれるのはイヤだと言っていました。
 またお婆さんは、大変な酒好きで、いざ飲むとなると、お祭の時や、お客にでも往った時は、ずいぶん女らしくもなく酔って騒ぐ人でした。酔うと、よく口癖のように、小島家は、こんな正岡のような成上りもんじゃない、キンキンのお侍じゃ、と言っていました。しまいには呂律もまわらないほどになって何か唄でも謡う手拍子を打つのに、その手がチグハグに合わない位、前後正体なかったこともあります。サアどの位飲みましたか、さほどでもなかったでしょうが……。
……
 兄は泣虫で、よく夜泣をしました。母は初産というのでまアお婆さんが引きとって世話をやく、ということになったのでしょうが、お婆さんから言えば、ひい孫にあたる私達を、孫のように思っていたかも知れません。さよう、お婆さんは当時六十そこそこ位であったでしょう。
 母は御承知の通り、何事にも驚かない、泰然自若とした人でしたから、初産でなくとも、少し気のつく人なら、母任せには出来なかったかも知れません。まして、いろいろ功を経たお婆さんでしたから、私達も自然お婆さん子と言った風になったのかも知れません。叱られると怖かったことを覚えていますが、ふだんは、よく甘えて往ったものでした。(正岡律子 家庭より観たる子規)
……
(碧)松山では、子供にお灸をすえる習慣があって、我々時代まで、かなり頑強に圧迫したものですが、無論升さんもすえられたことでしょう。
(律)私どもの宅では、二八月と言って、一年に二度すえました。一個処に五十位ずつ、背中と横腹と腰とへ九個処くらい据えましたから、やがて半日仕事でした。このお灸は、東京へ遊学する時まで、ずっと続いていました。
 お灸をすえると、すえ賃というので、兄はいつも大和屋ーその頃の貸本屋ーから、例の八犬伝だとか、弓張月だとか言って小説本を借りていました。(正岡律子 家庭より観たる子規)
 
 結局、子規がお灸の痛さに耐えられねようになったのは、我慢すれば幾らかのお小遣いがもらえたためで、現実的な子規の顔がここに現れています。





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最終更新日  2019.09.19 19:00:13
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