2519447 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.05
2024.04
2024.03
2024.02
2024.01

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2019.10.16
XML
カテゴリ:夏目漱石
 うちの主人は時々手拭いと石鹸(シャボン)飄然といずれへか出ていくことがある。三四十分して帰ったところを見ると、彼の朦朧たる顔色が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦しい男にこのくらいな影響を与えるならば吾輩にはもう少し利目があるに相違ない。(吾輩は猫である 7)
 ロンドン留学から帰国した漱石は、当初、牛込区矢来町にある妻の実家の離れに住みました。帰国から2ヶ月ほど経った明治36年3月3日、森鷗外が住んだこともある千駄木町の斎藤阿具の持ち家に転居したのです。この頃、漱石の神経衰弱は酷くなり、この年の7月には、妻たちと2ヶ月間別居しています。鏡子の『漱石の思い出』には「六月の梅雨期ごろからぐんぐん頭が悪くなって、七月に入ってはますます悪くなる一方です。夜中に何が町ださわるのか、むやみと癇癪をおこして、枕と言わず何といわず、手当たりしだいのものをほうり出します。子供が泣いたといっては怒り出しますし、時には何が何やらさっぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当たり散らしております。どうにも手がつけられません」とあります。何かの拍子に突然豹変して、周りに当たり散らかす状態は何度も続きました。
 

 
 この頃、帝国大学では前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の留任運動が起こり、講義を受けていた藤村操が華厳の滝に投身自殺するなど、漱石の周りにはイライラの原因が渦巻いていました。漱石の大学での評価が高まるのは9月に「マクベス」の講釈を始めてからで、教室は立錐の余地がないほど、聴講の学生が詰めかけました。明治37年になると、漱石は絵を描き始めますが、それも精神に良い影響を与えました。
 明治37年の夏、千駄木の漱石の家に黒い猫が迷い込んできます。鏡子は猫嫌いで、家から追い出しますが、すぐに家の中に上がってきます。夜に外へ放り出しても、朝に雨戸を開けるやいなや「にゃん」と鳴いて入ってきます。いくらつまみ出しても、いつの間にか御飯のお櫃の上でくつろいでいます。漱石が「この猫はどうしたんだい」と尋ねるので、鏡子は「家へ入ってきてしかたがないから、誰かに頼んで捨てもらおうと思う」と答えると、漱石は「おいてやったらいいじゃないか」といいます。その日から、猫は夏目家の一員となりました。
 
 ある日のこと、馴染みの按摩が夏目家にやってきたとき、猫を抱き上げていろいろと眺め、「奥様、この猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ。飼っておおきになるときっとお家が繁昌いたします」といいます。黒ずんだ灰色の中に虎のような斑がある福猫が飛び込んできたといわれてからは、鏡子も猫を可愛がり始めました。
 猫を主人公にした小説は、高浜虚子たちが行なっていた文章会「山会」で朗読されました。漱石はその経緯を『文学談』で「『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞うつもり。また斯くまで世間の評判を受けようとは少しも思って居りませんでした。最初虚子君から『何か書いてくれ』と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、いたくその席で喝采を博したそうです。それでいよいよ『ホトトギス』に出して見ると、一回には世間の反響は無論なかったのです。ただ小山内薫君が『七人』で新手(あらて)の読物だとかいってほめてくれたのを記憶しています。虚子君の方では雑誌の埋草(うめぐさ)にもなるからというのでしょう、『ぜひ後を書け書け』とせがまれまして十回十一回とこう長くなりました」と語っています。
 
 小説を書くことを薦めた虚子は『漱石氏と私』で「評判が善かったので続いて筆を取ることになった。また「猫」の出た『ホトトギス』は売行きがよくって、「猫」の出ない『ホトトギス』は売行きが悪かったので、こっちからも出来るだけ稿を続けることを希望した」と書いています。
 それから、漱石は矢継ぎ早に小説を書きました。この年は『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『薤露行』、明治39年は『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』、明治40年は『野分』とあって、この年に大学教授の職を捨て、朝日新聞社に入社します。
 漱石の家に迷い込んだ猫は、確かに福猫でした。
 
『吾輩は猫である』には風呂屋が出てきます。これは千駄木にあった「草津湯」です。「行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子(ガラス)窓があって、そのそとに丸い小桶が三角形即すなわちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒とした。小桶の南側は四五尺の間、板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂の上等である。よろしいといいながらひらりと身を躍らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いといって、未だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分ないし四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂というものを見たことがないなら、早く見るがいい。親の死目に逢あわなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観はまたとあるまい」と猫の目で描写しています。
 
 漱石の次男・伸六は『父・漱石とその周辺』で「私は、小さい時分、父が、よく、日向水の様に生ぬるい湯に、長いこと顎までつかっていたのを思い出すが、江戸っ子には不似合いなぬる湯好きの癖に、私には、どう見ても、その様子から、風呂好きの父を聯想せずにはおられないのである。もっとも、当時は、随分と一般家庭の生活もじみなもので、私の家でも、薪を少しでも節約する意味からか、風呂は一日おきにしか沸かさなかった。それで父も、風呂の立たぬ日には、よく石鹸をぶらさげて、家の前のだらだら坂を左へおりた近くの銭湯へ出かけて行った」と書いています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.10.16 19:00:06
コメント(0) | コメントを書く
[夏目漱石] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.