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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.11.27
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カテゴリ:夏目漱石
 小宮豊隆は『休息している漱石』で「しかし洋行から帰って来て、高等学校に教えに来だした時分の先生の洋服姿は、ひどくハイカラで、諸先生の中に異彩を放っていたようである。今日流布している写真の先生は、髭を短く刈り込んでいるが、当時の先生は、カイゼル髭ほど極端なものではなかったとしても、房房と生えた真黒な髭の両端をぴんと刎ね上げ、ひどく気取った風采をしていた。それが高いダブル・カラーに、紺地の背広をキチンと着こなし、折目の正しいズボンに、磨き上げたキッドの編み上げを穿いて、菊倍判位の大きさの、黒いクロースの表紙の出席簿の角をつまみ、ぬかるみをあるきでもするように、爪先き立て勝ちにひよいひょいと弾みをつけて、教員室から教場へ少し俯向き加減にあるいて来る姿は、まったく颯爽たるものがあった。洋行帰りは、大抵向うで洋服を拵えて来るから、よほどどうかしたのでない限り、大抵は颯爽としているものである。然し当時の先生の洋服姿は、普通の洋行帰りの群を抜いて、颯爽たるものだった。恐らく先生は、ロンドンで洋服屋に小言を言い言い、ぴたりと身体につくように、自分の洋服を仕立て上げさせたものに違いなかった」と書いています。
 
 漱石は洋行の前に洋服を仕立て上げていました。漱石と同時に洋行した藤代素人の『夏目君の片鱗』には「支度万端について僕はある独逸人を顧問としたが、服などは向うへ渡ってから新調した方がよいというので、寄せ集め物で間に合わせたが、君は森村組の仕立てなら、何処へ出しても恥かしくないそうだといって、その通り実行した。実際君の服装が一番整うていた」とあり、洋行の前に洋服を仕立てていたことがわかります。
 
 ロンドンで、洋服を新調したかどうかについては、34年4月5日には「往来ものいずれも外出行の着物を着て、得々たり。吾輩のせびろは少々色が変わっている。外套は今時の仕立でない。顔は黄色い。背は低い。数え来ると余り得意になれない」と書いており、持ってきた洋服がややくたびれてきたことがわかります。
 5月17日の日記には「晩、洋服屋来る。見本を置て帰る」とあり、5月21日には「朝、洋服屋の見本来る」とあり、服を新調したようです。ただ、この前の1月5日の日記に「妄りに洋行生の話を信ずべからず。彼等は己の聞きたること、見たることをuniversal caseとして人に話す。あに計らん。その多くは皆particular caseなり、また多き中には法螺を吹きて厭に西洋通がる連中多し、彼等は洋服の嗜好流行も分らぬ癖に、己れの服か他の服より高き故、時好に投じて品質最も良好なりと思えり。洋服屋にだまされたりとはかつて思わず。かくの如きものを着て得々として他の日本人を冷笑しつつあり。愚なること夥し」と書き、洋服屋に騙されないように気をつけていたようです。
 
 ただ、狩野亨吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎らに宛てた2月9日の手紙で「こういう訳で語学その物は到底僕には卒業ができないから、書物読の方に時間を使用することにしてしまった。従って交際などは時間を損するからなるべくやらない。加之(しかのみならず)西洋人との交際となると金がいるよ。御馳走ばかりになっているとしても金がいるよ。まずい洋服などは着ていられないし、タマには馬車を駆らなければならないし、しかも余程親密にならなければ一通りの談話しかできない。興味のあるシンミリした話なんかはやれないからね。それでも二年で語学が余程上達する見込があれば我慢してやるが、それは以上の理由でだめだから時間を損し、金を損してこれという御みやげがない位なら始めからやらない方がいいからね。僕は下宿籠城主義とした」と書いています。
 

 
『倫敦消息』にも金の少なさを嘆くところがあり、洋服よりも書物を解体子規でしたが、裸で出かけるわけには行かず、洋服を新調することもあったようです。
 
 なるほど留学生の学資は御話しにならない位少ない。倫敦ではなお少ない。少ないがこの留学費全体を投じて衣食住の方へ廻せば、我輩といえども最少しは楽な生活が出来るのさ。それは国にいる時分の体面を保つことは覚束ないが(国に居れば高等官一等から五つ下へ勘定すればすぐ僕の番へ巡わってくるのだからね。もっとも下から勘定すれば四つで来てしまうんだから、日本でも余り威張れないが)とにかくだ、これよりもさっぱりした家へ這入れる。しかるにあらゆる節倹をしてこのようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない、単に学生であるという感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ来たものだから、成ることなら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい欲があるからさ。そこで家を持って下婢どもを召し使ったことは忘れて、ただ十年前、大学の寄宿舎で雲駄のカカトのようなビステキを食った昔しを考えては、それよりも少しは結構? 先ず結構だと思っているのさ。人はカムパーウェルのような貧乏町にくすぼってるといって笑うかも知れないが、そんなことに頓着する必要はない。かような陋巷にいったって引張りと近づきになったこともなし、夜鷹と話をしたこともない。心の底までは受合はないが、まず挙動だけは君子のやるべきことをやっているんだ。実に立派なものだと自ら慰めておる。しかしながら冬の夜のヒューヒュー風が吹く時に、ストーヴから烟りが逆戻りをして室の中が真黒に一面に燻るときや、窓と戸の障子の隙聞から寒い風が遠慮なく這込んで、股から腰のあたりがたまらなく冷たい時や、板張の椅子が堅くって疝気持の尻のように痛くなるときや、自分の着ている着物が漸々変色して来るにつれて自分が段々下落するような情ない心持のする時は、何のためにこんな切り詰めた生活をするんだろうと思うこともある。エー構はない。本も何も買えなくても善いから、為替はみんな下宿料にぶち込んで人間らしい暮しをしようという気になる。それからステッキでも振り回してその辺を散歩するのである。(倫敦消息)
 
 豊隆は漱石が仕立て上がりの洋服をチェックする様子を見ています。
 
 これはもっと後の話であるが、私は早稲田の先生の家で、先生が今仕立て上がって来た洋服を着て見る所に出会ったことがあった。当時先生の家の玄関に、紳代杉の広い枠に嵌め込んだ、ほとんど等身の、大きな姿見が置いてあったが、先生はそれを客間に持って来させ、新しい洋服を着てその前に立って、後ろを向いて見たり、横を向いて見たり、腕を伸ばして見たり、曲げて見たり、あらゆる恰好をして、背中がぶくぶくになりはしないか、肩の所が飛び上がりはしないか、腋の下に妙な皺が出来はしないかなどということを、ためつすがめつ実に克明に点検して、直しをいちいち洋服屋に注文した。それは端から見ていて、おかしい位だった。夏目漱石には似合はないような気さえした。然し他人が見ておかしくてもなんでも、先生はそうしなければ、気がすまないらしかった。ーー今から考えると、無論これは主として先生のおしゃれから来たものには相違ないが、然し一方、自分が自分の好みで洋服を作る以上は、何所までもキチンと自分の好みに合せて作るのが当り前だという、先生の美的な潔癖からも来ているに違いなかった。(小宮豊隆 休息している漱石)
 
 豊隆の、漱石がなぜおしゃれであるかということについて「先生はなかなかおしゃれだった。これは先生が江戸っ子であったということ、然も生れた家が、痩せても枯れても、名主という、相当派手な暮しをしていた家であったということ、そうして親類には遊女屋があり、姉さんだの兄さんだのの住んでいた世界が、そういう空気の濃厚に漂っている世界だったということ、そういうことが見えない因果の糸となって、ここに尾をひいているせいもあるかも知れない。『それから』の代助は、相当なおしゃれとして描き出される。代助の中には先生のおしゃれが随分這入っているようである。(小宮豊隆 休息している漱石)」と考察しています。





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最終更新日  2019.11.27 19:00:06
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