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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.11.29
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カテゴリ:夏目漱石
 漱石は明治26年、帝国大学文化大学英文学専攻を卒業しました。漱石は、この年の7月10日に学習院の試験を受けました。そして、落第をしたので1年早く卒業していた学友の立花銑三郎に頼んで、学習院への就職を依頼しました。銑三郎は、学習院で心理学・倫理学を教えており、そのために学習院へのあっせんしてもらったのでした。
 
 拝呈。本夕磯田氏方へ参り色々相談仕り候処、高師(=東京高等師範学校)の方は目下経済上の不都合のため、多分雇入むずかしからんとの儀に御座候。もっとも右はまだ確と定り候次第にも無之候得ども、余程あやしく存候に付き、この際断然決意の上、学習院の方へ出講致し度、よりて御迷惑ながら御周旋被下度、小生今六時発の汽車にて日光へ向け出発、両三日後ならでは帰京不仕候間右乍、略義書状にて御願申上候。村田君へも右の事情よろしく御話しの上、貴君同様御尽助被下候様、御取計い是祈先は用事のみ。余拝顔の上。匆々頓首。(明治26年7月12日 立花銑三郎宛て書簡)
 
 漱石は学習院で行われた講演『私の個人主義』にことの経緯を綴っています。
 
 あなたがたは立派な学校に入って、立派な先生から始終指導を受けていらっしゃる、またその方々の専門的もしくは一般的の講義を毎日聞いていらっしゃる。それだのに私みたようなものを、ことさらによそから連れて来て、講演を聴こうとなされるのは、ちょうど先刻お話したお大名が目黒の秋刀魚を賞翫したようなもので、つまりは珍らしいから、一口食ってみようという料簡じゃないかと推察されるのです。実際をいうと、私のようなものよりも、あなたがたが毎日顔を見ていらっしゃる常雇いの先生のお話の方がよほど有益でもあり、かつまた面白かろうとも思われるのです。たとい私にしたところで、もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新らしい刺戟のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。
 私がなぜそんな仮定をするかというと、この私は現に昔しこの学習院の教師になろうとしたことがあるのです。もっとも自分で運動した訳でもないのですが、この学校にいた知人が私を推薦してくれたのです。その時分の私は、卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていいか知らなかったほどの迂濶者でしたが、さていよいよ世間へ出てみると、懐手をして待っていたって、下宿料が入って来る訳でもないので、教育者になれるかなれないかの問題はとにかく、どこかへ潜り込む必要があったので、ついこの知人のいう通り、この学校へ向けて運動を開始した次第であります。その時分私の敵が一人ありました。しかし私の知人は私に向ってしきりに大丈夫らしいことをいうので、私の方でも、もう任命されたような気分になって、先生はどんな着物を着なければならないのかなどと訊いてみたものです。するとその男はモーニングでなくては教場へ出られないといいますから、私はまだことのきまらない先に、モーニングを誂らえてしまったのです。そのくせ学習院とはどこにある学校かよく知らなかったのだから、すこぶる変なものです。さて、いよいよモーニングが出来上ってみると、あに計らんやせっかく頼みにしていた学習院の方は落第とことがきまったのです。そうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たすことになりました。(私の個人主義)
 

 
 漱石は、学習院への出向が決まる前にモーニングをあつらえていたのですが、学習院への就職は失敗でした。
 漱石を抜いて学習院の英語教師となったのは重見周吉でした。重見は愛媛出身で、今治中学から同志社を経てエール大学理学部・医学部を卒業し、在学中にアメリカで自伝『日本少年』を出版していました。帰国して医院を開業しながら、東京慈恵会医学校で英語を教えており、そうした実地の経歴がものをいったのか、漱石を抜いて出講が決まったのでした。
 
 あつらえたモーニングは、外出時の服を持たなかった漱石のよそ行き着として使われました。
 
 そのモーニングを着てどこへ行ったと思いますか? その時分は今と違ちがって就職の途は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまったので、ことが変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届きがちで、とうとう自分に祟って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられたことは事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るようなことをいいながら、ほかにも相談をされては、仲に立った私が困るといって譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ちですから、いっそ双方とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。
 するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに遠慮はいらないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行いきがかり上いやだとはいえませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介なことになってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持ちしようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行くことになりました。(私の個人主義)
 
 モーニングとは「モーニング・コート」のことです。燕尾服よりはややカジュアルで、前の裾を大きく斜めに切った形状のため「カット・アウェイ・フロックコート」ともいいます。前の裾をカットしているのは、もともとイギリス貴族の乗馬服だったためで、「モーニング」というのも、朝の乗馬がイギリス貴族の日課だったことにちなみます。
「モーニング」ついでですが、ジャズ・ドラマーのアート・ブレーキーの名曲に「モーニン」があります。ただし、こちらは「Moanin’」で「Morning」ではありません。日本語に訳すと「呻き」ですね。





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最終更新日  2019.11.29 19:00:07
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