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カテゴリ:夏目漱石
土筆(つくづくし)人なき舟の流れけり 漱石(明治28) 前垂の赤きに包む土筆かな 漱石(明治30) 土筆物言はずすんすんとのびたり 漱石(明治30) 春に生える土筆は、漱石の食の嗜好には合わないように思われますが、俳句での季節感の演出には最適です。 小説に登場するのは『草枕』と『虞美人草』で、どちらも川舟からの風景に登場します。まさに、水温む春の川遊びであることを強調するためでしょう。 『草枕』の川遊びは、漱石が熊本にいた頃の、明治30年3月末〜4月初めに、結核で療養していた友人の菅虎雄を郷里の久留米に訪ねています。土筆の季節手もあり、筑後川の船遊びに興じた印象を書き付けたのかもしれません。 『虞美人草』の川下りは保津川下りで、明治40年4月8日に漱石は嵐山を散策し、亀岡駅で降り、保津川下りを楽しみました。漱石は、朝日新聞大阪本社へ入社の挨拶のために行くことになり、友人の狩野亨吉の家に寄寓しました。漱石の京都旅行には、当時三高(現京都大学)に赴任していた菅虎雄も同行しています。 この日の日記には次のように書かれています。 八日〔月〕 〇嵐山 〇保津川。 潭、激流。岩。平なるものcrystalの如きもの の如きもの、不規則に凸凹あるもの、烏帽子岩、書物岩、屏風岩。 〇山、松山、石山、雑木山。 〇杣、木樵、猿の如し。 〇筏、一列毎に揖をとる。 〇筏士 岩の上に数多弁当を食う 〇舟、溝造、舟子四人。二人は櫂を右側に結びつける(籐蔓)。一人は軸にて竹の竿で岩をつく。一人は艪で楫をとる。 〇仁和寺 田楽 〇妙心寺 〇等持院(漱石日記) 川幅はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。舷(ふなばた)に倚って、水の上を滑って、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、鉢はち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。腥(なまぐさ)き一点の血を眉間に印したるこの青年は、余ら一行を容赦なく引いて行く。運命の縄はこの青年を遠き、暗き、物凄き北の国まで引くが故に、ある日、ある月、ある年の因果に、この青年と絡みつけられたる吾らは、その因果の尽くるところまでこの青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾らの間にふっと音がして、彼一人は否応なしに運命の手元まで手繰り寄せらるる。残る吾らも否応なしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。 舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には土筆でも生えておりそうな。土堤の上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から藁屋根を出し。煤けた窓を出し。時によると白い家鴨を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。(草枕 13) 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡に降りた。保津川の急湍はこの駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油(へきゆう)の趣をなす。岸は開いて、里の子の摘む土筆も生える。舟子は舟を渚に寄せて客を待つ。 「妙な舟だな」と宗近君がいう。底は一枚板の平らかに、舷(こべり)は尺と水を離れぬ。赤い毛布(けっと)に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。(虞美人草 5)
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最終更新日
2021.03.01 19:00:07
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