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カテゴリ:夏目漱石
明治24年12月11日、子規は常盤会寄宿舎を出て、本郷区駒込追分町の奥井方の離れ座敷に転居しました。子規は、一人きりで小説『月の都』を執筆しようと考えていました。 子規は同年齢の幸田露伴が著した『風流仏』に心酔し、「遂に『風流仏』は小説の最も高尚なるものである。もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬ」(『天王寺畔の蝸牛廬』)と書き、子規の小説『月の都』はその影響下にありました。1月30日の河東碧梧桐宛書簡で「僕も著作未だ成らず……僕の出版せぬかも知れぬという意味は、世の中に適合するとかせぬとかということにはこれなき候。……原稿の買い手ありともあまり安価なれば売らぬつもりなり。何ゆえに売らぬや、名誉に関するゆえなり、何ゆえに名誉を重んずるや。僕答うるところをしらず」と書いています。 ようやく完成した『月の都』を持って、2月下旬に子規は露伴を訪ねますが、来客のため二十分ほどしか話せませんでした。露伴から「月の都悉く皆拝読いたしおわり候。行燈消えて水の音という御句など失礼ながら、おもしろく存じ申し候。波子と男と花のかげにて応対の場は、今一応、御勘考あらまほしく存じ候。その他は風松に入るごとき御文章の趣致めでたく閲覧仕り候。書き置きもなることならば、もっとも文飾なきがよろしきは候わずやと存じられ候。御無遠慮に愚見申し上げ候」という批評の手紙が返ってきましたが、それは子規の満足するものではありません。 子規は、高浜虚子と河東碧梧桐に宛てた3月1日の手紙に「拙著はまず。世に出る事。なかるべし」と書き綴り、10日には「露伴、僕の小説を評して曰く、覇気強しと、また曰く覇気は強きを嫌わず」と強がりを書いています。 漱石にも、小説を露伴に見せたことを伝えました。漱石は、『正岡子規』で「その『月の都』を露伴に見せたら(川上)眉山、漣(厳谷小波)の比でないと露伴もいったとか言って自分も非常にえらいもののようにいうものだから、その時分何も分からなかった僕もえらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来ようやく悟ったとかいってもう恐ろしい者はないように言っていた。相変わらず僕は何も分からないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた」と強がっていたことを語っています。しかし、子規は小説の出版が難しいことを予感していました。『月の都』が活字になるのは、子規が「小日本」の編集責任者になり、掲載の自由を手に入れてからのことでした。
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最終更新日
2021.12.15 19:00:06
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