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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2022.05.16
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カテゴリ:夏目漱石
 明治44年11月29日、食事をしていた五女の雛子が「きゃっ」と叫んで急に倒れました。いつもの引き付けだと思って水を吹きかけますが、何の反応もありません。書斎にいた漱石は、その様子に気がつかず、筆子から雛子の様子を聞いて、すぐに立ち上がりました。
 漱石は、「ダメだ、死んだ。かわいそうなことをした」とつぶやくと、しばらく憮然としていました。
 その様子を、鏡子は『漱石全集』(昭和三年版)月報第六号で語っています。    
 明治四十三年の三月桃の節句の前の晩、お雛様を飾って宵雛のおまつりをして、お若い門下の方々が幾人かおいでになって白酒をのんだりしていらっしゃる時に、私共の一番季(すえ)の女の児が生まれました。節句にちなんで雛子と名づけました。これが早く亡くなるからでもあったでしょうが、智慧も早く、非常なおしゃまっ子でございました。一年半もたった四十四年の秋頃には、よちよち裏で遊んでいては、自分も見様見真似で猫の墓にお水を上げに行って、序に自分もその水を飲んで了うという案配でちっとも目が雛せません。それがまた中々の癇癪持ちの意地悪るでございました。
 十一月末のことでございました。この日も夕方長女の筆子に長いことおんぶされたり、それからおもりと一緒に猫の墓のあたりで遊んでおりました。そのうちに夕飯時になります。いつもですと、小いのばかりがうじゃと集るのですから、とても大騒動なので、この雛子とその上の小い男の子[次男伸六]の方とだけは、めいめいお守りがおんぶして外へ避難して、さて皆のごはんがすんだ頃を見計らってかえって来て、それから御飯をやるという方法でやって居たのですが、この日はどうしたはずみか、御飯を一足先にたべさせて、それから外へ行くというので、茶の間の隣の六畳で始めました。ところが自分一人で御飯を頂こうというので、おもりのもっている匙を取り上げて、お茶碗片手に、「こう? こう?」と片言まじりに食べ方を聞きながら食べておりますうち、急にキャッというなり茶碗をもったまま仰向けにたおれてしまいました。一体この子でもこの上の男の子でも、疳が強くて、ひきつけることがしばしばありまして、誠に男の子などは障子をしめちゃいやだと駄々をこねてるのを閉めたとあって、いきなりひきつけるなどといった工合で少々極端なのでしたが、その代りひきつけたからといって皆でなれっこになっておりますから、顔に水を打っかけると、また息を吹きかえすといった位簡単なのでもあったのです。この女の子もこのでんで前に四、五度ひきつけたことがあったので、またかと大して驚きもせず、子守が万事呑み込んで水を吹きかけますが、これはまたどうしたことか、いつものように手取早く息を吹きかえしません。
 その時、私は外の子供たちと一緒に茶の間で御飯を食べかけていたのですが、隣りの騒ぎもいつものものと聞き流してそのまま箸を運んで居りましたが、何だか長いのが気になりますので出て参いりました。そうしていつもやるように水を吹っかけて呼んだり揺すったりして見ましたが、ぐたりとして白眼をむいたまま一向ききめがございません。どうも自分たちの手におえそうもないので、すぐ前のお医者さんを呼びにやりました。
 医者がかけつけてすぐ注射をして下さいます。反応がありません。どうも様子が変だから、ともかく洗腸をして見ましょうといってその仕度にかかりますと、すっかり肛門が開いているというので、びっくりして了いました。これはいけない、いつもかかりつけのお医者さんをというわけで急ぎ立てました。
 丁度その時、書斎には中村古峡さんが見えておりまして、夏目と話をしてらっしゃいました。雛子の様子が変なので夏目を呼びにやらせますが、夏目もいつもののだと高をくくってるのでしょう、一向来てくれません。とうとう私が駆け込んで、貴方大変ですから来て下さいといったわけで引っぱって参いりました。しかし主治医が来て下すって、いろいろ手を尽くし品をかえてやって見ましたが、注射もきかず、人工呼吸もきかず、薬は元よりうけつけず、辛子湯も効なく、何もかもききめがありませんでした。どうにも仕方がありません。といってあきらめてしまうには、余りに呆気ない、うそのような咄嗟な出来事で、みんなぼんやり何かにつままれたような気持になって了いました。誠にこれ迄沢山の子供たちも一人残らず生長して来て欠けたものもないので、なお更のことこんな始めての不幸に参ってしまったわけでございます。がどう考えても夢のようで、ついさっきまで元気にしていた吾が子が、ぽっくり死んでしまったという感じがして来ないのでありました。
 けれども亡くなりました上は、如何に夢心地でなげいて居ても是非がありません。ともかく形ばかりのお葬(とむらい)を出してやらなければならないのでございますが、さてここに一つの困ったことがおこりました。というのは私たちは分家をしておりまして、家から葬式を出したこともなく、また誰の位牌もないので法事をしたこともないので、きまった菩提寺というものがないのでございます。一体夏目の本家は代々、小石川小日向の本法寺という浄土真宗の名刹の門徒で、そこに先祖からのお墓もあるのですが、夏目が余り真宗を好みません上に、本法寺の檀下になるという気もしないので、どうしたものだろうといっていたのですが、この場合、急にうまい分別もなく、兄さんなどもともかく今度は本法寺に頼んだらよかろうということで、ではこん度のところはというので本法寺にきまりました。
 さて葬式となっても、仰々しい馬鹿騒ぎは困るし、第一それに子供ではあるし、普通の盛り物だの花だのというを嫌って、何とか突飛でなく、しんみりみんなで身内のものを葬うという気持になれることがないかと申して居りましたが、そのうちにふと西洋に居てあちらのお葬式を見た印象から思いついたとか申しまして、誰彼れの区別なしでみんなで送ってやろう、これが一番いいという至極簡単な思い付きで、葬式の日には、葬場の本法寺へみんなで馬車を連らねてついて行くということに致しました。
 御通夜になって本法寺から通夜僧が来ます。夏目は、おれは通夜なんか嫌いだ、みんなかえってねた方がいいじゃないかといって居りましたが、私たちが死体を守る為めだからなどと申しまして、それはそのまま続けてやりました。自分ではいい加減おそくなってからねてしまったようでございました。
 その時、夏目が申しますには、
「おれなんぞ死んだって通夜なんかしてくれるなよ」
 というので、私の母が
「でもみんなでこうやってついているのは、一つには死んだ仏に明日はおわかれするそのお名残りを惜しんでいるのですが、その外鼠でも出てかじったりなんかしないように死体を護ってついてるのでございますよ。若し貴方の時に、誰でもついてなくって鼻でもかじられたらどうなさいます」
 と申しますと、夏目は興がって、
「そうなったら、かえって痛い痛いって生きかえるかも知れませんね」
 と皆を笑わして居りました。
 その通夜僧が余り上品な方ではなく、よせばいいのに何でもかつがしめるような話を致します。
「お寺では何でも頂戴致します。死んだ仏のものは、皆どこでもお宅では気味悪がられたりしますので、何でも頂きますし、またお宅によっては供養のためとあって遺体を御寄進なさいます方もございます」
 というような話から、
「どうかそんなものがございましたら御遠慮なく」
 と気をきかした積りで、今にも何でも貰らって行こうといった素振りをします。
「例えばお棺におかけになってる白いきれ、あんなものでも頂きます」
 に、とうとう夏目もあいそがつきたという風に
「いや、あれは葬儀屋から借りたものです」
 とにべもなくそっ方を向いて挨拶して居りました。
 こうして棺を本法寺へもって参いりまして、お経を上げて貰い、そうして落合の火葬場でやきました。
 お骨にしましてからしばらく家におきましたが、家が狭くもあり第一子供たちが多いので気にもなりますしするので、埋葬するまでお寺へ預けることになりました。ところが私が埋葬書だけもってるとどこかへなくしそうな気がしてましたので、お骨の箱の中へ入れたまま、それなり寺へあずけてしまったのです。
 それからしばらくしてから雑司ヶ谷に墓地を買いましたので、いよいよそこへ埋葬しようということになって、お骨を寺に貰いに行くと渡してくれません。寺の方では、寺の墓地へ墓を立てさせて金にしようという魂胆なものと見えて、こっちから使にやったものには何のかんのと理窟を構えて、どうしても手渡してくれないのです。埋葬書ぐるみお骨をとられてるのでどうすることも出来ません。そこで、始めから本法寺にお墓をこさえる意志はないのでしたが、こう露骨になれば愈々いやになって、意地にも早く取り戻そうということになり、かといっていい加減の使を差し向けておいたんでは先方が動かないので、そこで私の弟にたのみまして、弟の知り合いの弁護士の手で告訴状を書いて貰い、そうしてやっと取り戻したのでした。お骨は雑司ヶ谷の墓地に埋めました。夏目が自分で小さい墓標を書いてやりました。
 その後、墓をたててやろうというので、津田青楓さんに御墓の設計をお願いしましたことなどもありましたが、とうとう墓は造らずにしまいました。(『漱石全集』(昭和三年版)月報第六号(昭和三年十月)夏目鏡子 雛子の死)
 大正2年3月19日、漱石は雛子の墓を立てようと思いつき、青楓にそのデザインを頼みます。しかし、同ゆう経緯かはよくわかりませんが、その計画は潰えています。
 しばらく御無沙汰をしました。折角御約束をして済まんと存じましたが、つい機会があったものですから光風会を二度見ました。色々面白いのがありました。あなたの瓶に団扇は好いように思います。その代り海(ことに大きな方)は賛成致しかねます。有島君の静物と花は面白う御座いました。
 さて御願があります。私は一昨年の秋に一つ半になる女子を失いました。今雑司ケ谷へ埋めてありますが、どうかその墓を拵えてやりたいと思っていますが、あなたにその図案を作って頂けますまいか。
 普通の石塔は気に食いません。何とか工夫はないものでしょうか。字はこっちでだれかに頼むつもりです、でなければ娘のことだから自分で書かうかと思っています。
 図案料と申すほどの御礼も差上られませんが、その辺は骨を入れる棺や石の代と比較した上で何とか致します。先は右御伺いまで。(大正2年3月19日 津田青楓宛書簡)





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最終更新日  2022.05.16 19:00:05
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