お み ゃ あ さ ん よ く ご 無 事 で
な つ か し い ” オ イ ”
手 握 り し め 涙 の 対 面
横井さんに会った大鹿さんは「 よくおぼえていてくれた 」
と目をまっ赤にして泣いていた。
「 庄一さん、おみゃあさんやーと、まめでいやーしたなも、
わしがわかりやーすか 」
28日朝、グアム島のメモリアル病院2階235号A室で奇跡の
生還4日目を迎えた横井庄一さん(56)は肉親として初めて
名古屋からきた母つるさんの孫、名鉄産業勤務 大鹿時義さん
(43)と感激の対面をした。
庄一さんがかわいがっていた時義さんの名古屋弁に、
思わず庄一さんの目から涙があふれた。
大鹿さんは27日、パンアメリカン機でグアム島に着き、
この朝初対面。病室には報道陣など一切の立入りを禁じ、
大鹿さんは部屋にはいるなり庄一さんの前に走り寄り、
手をさしのべながら「 庄一さん 」と両手をしっかと
握りあった。 互いを見つめ合う目と目。
大鹿さんが「 長い間ほんとにご苦労さん。
一日も早くみんなの待っている千音寺( 名古屋市中川区 )に帰ってこい。
わしも初めは名古屋で待つつもりだったが、待ちきれずグアムへ来た。
ただ安心して帰って来てほしいが、庄一さん、8年前、あんたの帰りを
待ちつづけていたおっかさんは、あんたの名を呼びながら死んだ 」と
母親、つるさんの死を横井さんに伝えた。
横井さんは「 ほうか、ほうか 」とつぶやき「 わしはもう56だでなあ 」
とかねてから覚悟していたような表情でじっとうつ向いた。
大鹿さんが背広のポケットから白いハンカチを取出し
横井さんの涙をぬぐい、自分の目も押さえていた。
持ってきた写真を手渡し「 庄一さん、これがだれだかわかるかや 」
とならべると横井さんは「 これは千音寺の錠太郎さんだ。
こっちは越津の富五郎さんだ 」と次々に写真の名前をあてた。
時義さんと庄一さんは、越津で一緒に育ち、昭和16年横井さんが
出征するとき日本刀を抜いてカキの木の上に逃げた時義さんを
追いかけたこと、昭和18年正月2日、元満州の奉天で最後に
別れた時の思い出などしみじみと語り合った。
また、「 庄一さんが死んだ知らせがはいったため、
養子を迎え、家は非常にうまくいっている。
自分が余計者になるのではないかと心配だろうが、
そんなことは一切考えんでもよい。
わしらがいるので、親族会議を開き、きちんとする。
村の人もみんな待ってるで、早く帰ってちょう 」
というと横井さんは「 そうけ、天皇陛下も会って
くださるそうで、きょうにも帰りたい 」と
ほっとした表情。
帰 国 は 来 月 2 日 に
厚生省は横井さんの帰国について、2月1日夜羽田空港着の
日航機を予定していたが、横井さんの健康を気づかい、
運輸省、日航と折衝した結果、2月2日に日航臨時便を
仕立てることを、28日決めた。
臨時便は2日正午( 現地時間 )グアム発、羽田着
午後2時15分の日航 DC8機。
また横井さんの健康状態について現地医師と相談させるため
29日国立東京第一病院の小山善之副院長と同院の山田寿恵子
副総看護婦長の2人を現地へ派遣する。
上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、
新聞に掲載されたものです。
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最終更新日
2022年03月02日 17時50分16秒
[元 日 本 兵 ・ 横 井 庄 一] カテゴリの最新記事
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