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カテゴリ:人物伝
その頃ヴェネツィアとローマ法王庁の関係は、二つの事件をめぐって険悪なものになっていました。ヴェネツィアの自国運営の方法と法律に、ローマ法王庁が強い不快感を表していたのです。(以前「ヴェネツィアとイエズス会(その3)(2007/12/12)」の記事で、この二つに事件に触れました) それは、教会財産に対する規制法(市民は、ヴェネツィア政府の許可なしに、一定以上の財産を教会に贈与してはいけないという法律)と、重犯罪をおかした聖職者二人を、ローマの宗教裁判所に送らずに、自国の法律で裁いたこと、の二点です。 ローマ法王庁にとってヴェネツィアは、以前からずっと一度叩いておきたい国でした。人文主義、宗教改革、啓蒙思想などという言葉の出回るずっと昔から、ヴェネツィア共和国は、ローマ法王庁の「神の権威」を笠に着た「脅し」が通用しない場所だったからです。 禁書に指定されたはずの本が、ヴェネツィアでは街角の本屋で普通に売られていたし、ガリレオのような「危険な」科学者達も、この街の知識人のサロンで歓迎されていました。「いまいましいヴェネツィア人め。好き勝手なことをしよって!」当時の法王パウロ5世(1552-1621)はそう言ったに違いありません。 1605年頃よりヴェネツィア政府は、サルピにアドヴァイスを求めるようになります。そして、これは早晩大きな政治的衝突になると読んだヴェネツィア政府は、自国の法的、宗教的立場の正当性を、論理的に専門的な見地からかためようと、パオロ・サルピにヴェネツィア政府の法学顧問となることを要請します。 サルピは、承諾の前にある一つの条件を出します。その条件とは、「ヴェネツィア政府は、私を死ぬまで守ること」というものでした。 自分も教会法学者として信念をもって戦うから、 政府も現在の観点を最後まで貫いてくれ、つまり、「腹をくくってくれ」という意味だと思います。 ヴェネツィア共和国が政治的妥協等で、立場を微妙に変えるようなことなく、一枚岩でのぞむ覚悟の有無を見極める必要があったのでしょう。自分が任されようとしている仕事が、学者、修道士としての生命だけでなく、まさに命そのものを危険にさらす熾烈な戦争であることをサルピはよく自覚していたのです。 法王庁は1605年12月、教会財産規制法の法律を撤廃すること、罪を犯した聖職者を法王庁に引き渡すこと、この二つをただちに実行するようにという、警告にあたる勅書を出します。これを受けたヴェネツィア政府は、さる要求は一国の独立国の土台を揺るがす重大な問題であり、内政干渉であると反発します。 ここで法王庁は、枢機卿会議を開き、ヴェネツィア共和国に「戒告」を出すことを決めます。「24日以内にこの二つの件が解決されない場合は、破門も視野に入れた聖務禁止令に処す」この文書がヴェネツィアに届いたのは、1606年4月17日のことでした。(その6に続く) (写真は、当時の第90代ヴェネツィア総督レオナルド・ドナ1536-1612) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008/06/20 06:06:19 PM
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